WEB/STORY「哀しき70’s Kids」ch.9

WEB/STORY「哀しき70’s Kids」ch.9

 

 

それから僕達は何度か蕪谷の蔵で練習をした。

練習するたびにうまくなる手応えを誰もが感じていた。

心をひとつにする喜びも感じていた。

僕達はもう、正真正銘の仲間だった。

ヤマさん。僕。ダースコ。坂下真理。染谷美保。蕪谷樹一郎。

五人のシンプルな夢を目指す仲間。

でも。

突然、大事件が勃発したのだった。

 

 

chapter.8

 WEB/STORY「哀しき70's Kids」ch.8 「バンドが転がり始めた。蕪谷が、オレたちの仲間になったんだ」 夏休みになった。蕪谷は一度も登校してこなかった。僕[…]

 

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「大事件が発生したんだ。いろんな意味で、大事件が。そして僕たちは東京へ行く」

 

 

その日も太陽は容赦なくて、僕は自分の部屋でしぼんだ風船みたいにヨダレを垂らしながら昼寝をしていた。扇風機の回る音を子守歌に。するとヤマさんがすごい勢いで飛び込んできたのだ。

「いない!」彼は寝ぼけている僕を羽交い締めすると、もう一度、耳の傍でこう叫んだ。

「起きろ! マー、大変だ! いないんだ、やつが、蕪谷が、いないんだ!」

 

「昨日変な夢をみたんだ。蕪谷がいなくなってしまう夢だった。あまりにはっきりした夢だったから、心配になって蕪谷の家に寄ってみた。案の定どこにもいない。いつもの河原にも行ってみた。そこにもいない。バアさんに話を聞いてみた。するとバアさん、オヨヨと泣きだすじゃねえか。バアさんによると、朝早く男達がやってきて寝ていた蕪谷を無理やり連れていってしまったらしいんだ」

「男達?」

「おう。とにかく屈強な男だったらしい。東京の蕪谷の親父の回し者らしい」

「は?」

「いやあ、やつの親父が、一向に学校へ行こうとしない蕪谷に愛想をつかして東京に連れ戻してしまったらしい」

そこでヤマさんはウーンと考え込んでしまった。だから僕もウーンと考え込んだ。蕪谷が東京へ帰ってしまうなんて、そんな事態、想像さえしなかったことだ。

とりあえずダースコ、真理、染谷に召集をかけ、蕪谷の家に押しかけることにした。蔵に行ってみた。変わっていなかった。ドラムもレコードもマイクも、すべていつものままだった。続いて母屋に行ってみた。バアさんが一人肩を落として茶の間に座っていた。声をかけると、お坊ちゃまのお父様のお怒りはごもっとも、お坊ちゃまが学校に行かなかったのは、一切お目つけ役の私の責任です、とバアさんまたまたオヨヨと泣き崩れるのだった。

 

「まあ、とにかくやつが東京に連れ戻されたという事実は事実として厳粛に受け止めねばならないと思うのであります。であるからその後の対応を我々は慎重に検討しなければいけないのだと思うのであります」ヤマさんが重々しい口調で言った。確かにもっともな意見であるが、果たしてどうしたらよいか、となると、誰もが考え込んでしまうのである。

ダースコがぽつりと言った。「しかし、あいつがいなくなるとバンドはどうなるんだ?」

誰も何も答えなかった。誰も何も答えられなかった。もちろんこのまま彼が戻ってこないのならバンドは終わりだ、ということは明らかだった。ドラムのいない、音楽的リーダーのいないバンドなんてクリープを入れないコーヒーよりひどいものである。

そのうち真理がこんなことを言いだした。「まず、蕪谷君に会うことじゃない? 会って話することが必要じゃない? もしかしたら蕪谷君も戻ってくるかもしれないし。そうよ、戻ってくるわ、だって蕪谷君、バンドのこと、すごく考えてくれてたもの」

するとヤマさんもぱっと表情が明るくなった。「そうだ。坂下さんの言うとおりだ。蕪谷は戻ってくる。やつは約束、破るような男じゃない。絶対に戻ってくる」

 

次の日は模擬テストだった。久しぶりに学校に集まったみんなにボツは首を振り振り、

「えー、蕪谷君は、ですねえ、この夏休み中、転校、することになりました。えー、短い間でしたが、みな、さんに、よろしくと、えー、そういったあいさつは、なにも、なしで、本当になにも、なしで、私の家に手土産のひとつ、持ってくることもなく、電話、一本だけで、それもお父さんの、秘書、という、赤の、他人、から、転校させますという電話、一本、それだけで転校する、なんて、私の立場は、えー、もうめちゃくちゃで、もちろん彼が学校に来たのは、一日だけです、から、大勢に、影響はないにも、関わらず、校長には、小言をいわれる始末で、日頃の学級経営がなっとらん、とだから私は、いえ、そのようなことは断じてあり、ませんと申し上げましたら、逆にお目玉、をくらい、私の立場、は…」と、訳のわからないことをつぶやきながら蕪谷の転校を告げたのだった。

佐島は気持ち悪いぐらい陽気だった。「ハッ、ハッ、あのバカ、とうとうシッポ巻いて逃げ出したわ、やっぱ、俺様が怖くてたまんなかったんだわ、まったく東京野郎は根性なしで困るわ、ハッハッ。キンタマついてねえんだろ」と品性のかけらもないことを大声で言って女子から白い目で見られていた。

僕はヤマさんを見た。ヤマさんは深刻そうな顔をしていた。真理と染谷を見た。彼女達も深刻そうな顔をしていた。最後にダースコを見た。ダースコは笑っていた。机の下に隠したマンガを読み耽っていた。

しかし転校とは。すでに正式な転校届けが出されてしまったとは。事態は思っている以上に良くない方向へ転がっているのかもしれない、と僕もみんなに倣って思わず深刻そうな表情を浮かべるのだった。

学校帰り、僕達はバアさんに断って蔵にあるドラムやマイクなどバンドに関係のある機材をとりあえずヤマさんの家の納屋に運ぶことにした。蕪谷の父親が指図して荷物を引上げることもあるかもしれない、という真理の忠告に従ったのだ。それは正解だった。僕達が機材を運んだその日の夕暮れ、トラックがやってきて蕪谷の荷物を根こそぎ持っていってしまったのである。

「とりあえず東京に行ってみなければ」染谷がいつになく強い口調で言った。

「みんなで蕪谷さんの東京の家を訪ねてみませんか。蕪谷さんに会ってきませんか」僕達は一様にうなずいた。

「一刻も早く行かないと、蕪谷さんは、どんどん私達から遠ざかっていってしまうような気がするんです」染谷の言葉に僕達はまたまたうなずいた。

「明日、というのはどうだ」ヤマさんが言った。

「明日、みんなで東京の蕪谷邸を訪ねる。どうでしょうか?」

パチパチパチ。全員が拍手をした。決定である。

みんなと別れると僕は一人、河原へ行ってみた。蕪谷と初めて言葉を交わした河原である。

あいかわらず川は鳴っていた。チリンチリン、と。カツンカツン、と。

何も変わってはいなかった。

ただひとつ蕪谷がいなくなったことを除けば。

 

次の日の朝七時。

すでに僕とヤマさん、真理に染谷の四人は駅のロータリーに集結していた。だが、ダースコがいつになってもこない。東京行きの電車は七時二十分発。あと、五分で出発する。

「おっかしいよなあ、ダースコ、昨日は、うんうん、ってうなずいてたのに」と僕。ヤマさんも時計とにらめっこしながらきょろきょろしている。

「ねえ、ダースコさんちに電話してみたら?」真理がたまらず言った。ヤマさんが無言でうなずくと電話ボックスに入っていった。

だがボックスを出てきたヤマさん、憮然とした表情でホームへ歩き出してしまった。「ダースコはこない。昨日、暴走族の集会に出て行ってまだ帰ってきてないそうだ。ダースコの母ちゃん、泣いてた」

 

そんな感じで少しばかり出鼻をくじかれた東京行きだったが、電車が動き出し、四人掛けのボックス席にヤマさんと僕、染谷と真理が向かい合って座り、一駅、二駅過ぎ、車窓の風景が見慣れないものに変わってきた頃にはようやく、ああ、これから東京に行くんだ、蕪谷に会い行くんだ、といった高揚感が出てきた。

しかしダースコがこの場にいないのはすごく残念だった。ほんとはみんなで心をひとつにして行きたかったのに。ダースコ、僕達がいる場所からどんどん離れていく、そう思うと心が締めつけられるのだった。

県境に差しかかった辺りで、

「こうやってみんなで電車に乗ってると修学旅行を思い出すね」と重い空気を振り払うように真理が言った。真理は東京の先生にピアノを習っている。兄は東京にアパートを借りて東大に通っている。だから今日も彼女は先導役である。

染谷は当初心なしか緊張した面持ちだったが、真理と東京のお店について話しているうち、ようやく笑みがこぼれるようになった。ヤマさんはそんな染谷をちらちら盗み見てはジャイアント馬場顔をさらに引き伸ばしていた。

僕もようやく心が弾んできた。少しばかり誇らしかった。近くに座るおばちゃん、おじちゃんに自慢したかった。こんなに素敵な女の子二人と今日はデートなんだぞ! と。そう。考えてみればこれはれっきとしたダブルデートというやつではないのか。グループ交際から愛は芽生える、と姉貴の『セブンティーン』に書いてあった。ということは今日をきっかけに、染谷とついに…と、よからぬことを考えていると、真理が僕達を見た。

「さて、と」真理の声音は少し低くて、きりっとしていてそして柔らかい。高い知性がそのまま声になったような優しい緊張感がある。だから僕もヤマさんも桃源郷のようなでれでれ顔を少し引き締めた。

「そろそろ今日の予定を確認しましょう」

「おう、そうだな。そうしましょう」ヤマさんも声に重みをつけて答えた。

「とにかく蕪谷君の家を訪問して蕪谷君に会うこと。住所は表参道から渋谷方面に向かってNHKの辺り。行けば私も美保もわかると思う」

「ほお、表参道か。テレビドラマの舞台とかになるところだよな」とヤマさん。「そういえばほら、吉田拓郎の『ペニーレインでバーボンを』。あの歌のペニーレインって表参道にあるって先月号の『ガッツ』に書いてあったな、そういえば」

染谷がうなずいた。「そのお店、確かキディランドの近くだったと思います」真理も続けた。「えっとね。私と美保はキディランドには行きたいんだ。せっかく原宿行くんだから、少し買い物。なんかちょっと目的から外れるけど、ごめんね、ヤマさんと岸田君はその間、どっかブラブラしてていいよ」真理の言葉にヤマさんと僕は蒼白になった。大都会東京でブラブラする勇気なんかどこにもない。

「ややや、それはダメだあ、真理。俺もヤマさんも東京、初めてなんだぞ。おまえらと離れたくないぞ。迷子になったらどうすんだ? 誘拐されたらどうすんだ?」

真理と染谷が顔を見合わせて笑った。「じゃあ、一緒に行く? キディランド。女の子だらけだけど」

「ところでそのキディランドって何屋さんなんだ?」と僕。

「うーん、まあ、おもちゃ屋さんってとこかな」僕もヤマさんも血の気が戻ってきた。おもちゃ屋なら恐るに足らず、である。

「でも、なんていったらいいかな。どっちかっていうと女の子向けだけど。あ、でもたぶん地下にレコード屋さんがあったわ。そこに居てくれてもいいよ」

レコード屋と聞いて僕とヤマさん、さらに血色がよくなってきた。「そりゃあ、いい。好都合ってやつだ。俺達もせっかくだからレコードの一枚や二枚、買って帰りたいと思っていたところでよ」

「そういえばヤマさんも岸田さんも音楽詳しいんですよね。だって岸田さん、『ダウンタウン』に決めたぐらいだから」染谷が目を輝かして言った。ヤマさんが苦笑している。僕もなんと答えていいかわからず苦笑する。

真理が柔らかな声で言った。「そうそう、岸田君ってこう見えても音楽詳しいのよ。特に洋楽は」

「まあな」という僕の顔はすでニヤけている。こう見えても、は余計だったが音楽好きの男は音楽の趣味で褒められることがこの上なく嬉しいのだ。

「岸田さん、どんな曲がお薦めなんですか? 私もいろいろ音楽について知りたいから」染谷がまっすぐ僕を見つめて言った。瞳が朝露のようにキラキラしている。こうなったら語るしかないのである。「そうね。うん、ほら、確かに僕は中学一年から洋楽チャートを聴き続けているだろ。まあ、いい曲はいろいろあるけど」もうノリノリである。「なんて言ったらいいかな。本物の曲とその時だけの曲があって俺が薦めるのは、本物の曲だな。本物の曲っていうのは、五十年経っても残る曲のことで、とにかく乾いてる。乾いているのに温もりがある。そういう曲は、とにかくイントロを聴いただけで、もう名曲だ、ってわかってしまうわけ」

僕がいい気になって話し終わると、染谷が、「岸田さんって本当に音楽詳しいんですね。尊敬しちゃうな」と頬を紅潮させていった。真理も感心したように、「じゃあ、今日は岸田君に教わってレコード買ってみようかな」と言った。僕はこの瞬間ほど、洋楽を聴きまくって良かった、と思ったことは後にも先にもないのだった。

あまりに僕が女子の脚光を浴びすぎてしまったからか、見るとヤマさんが車窓を眺めながら黄昏れていた。染谷が言った。

「ところでヤマさんも音楽詳しいんですよね」染谷はこんなところにも優しい心配りができるのである。

染谷に話を振られて、ヤマさんもがぜん張り切りだした。「ま、洋楽はマーに任せるとしてもよ、日本の音楽なら、この山田正義、ちょっとは詳しいわ」

「私もニューミュージックっていうのかな。大好きです。特にユーミンとかオフコースとか、ナイアガラとか。それから『はっぴいえんど』。ヤマさんも好きですか?」

「おう、そ、まあな。ユーミンか、うん、ムーミンみたいなやつだろ。オフコース。これはもちろんオフコース。あと、ナイアガラ? おう、滝みたいな音楽だな、あれもいいな。それからやっぱ、何事もハッピーエンドじゃなくちゃなあああ」と、意味不明なことを口走っていると、「それで、ヤマさんのお薦めは?」と真理が助け舟を出した。

「例えばよ、グレープ、『無縁坂』泣けるわ。NSP『夕暮れ時は寂しそう』これも泣けるわ。ふきのとう『白い冬』まだまだあるわ。三輪車の『水色の街』だろ。猫の『雪』だろ。風の『二十二歳の別れ』だろ。それから、ほら、まるで今日のようなことを歌ってる、マイペースの『東京』。これもええ曲だわ」とヤマさんはなんとその『東京』を歌いだしてしまった。

 

~♪ 東京へは、もう何度もいきましたね。

君の住む美し都 ~♪

 

結局ヤマさん、最後まで歌いきってしまった。なかなかの熱唱である。さすがシンプルドリームのメインボーカルである。隣に座っていたおばちゃん連中も、最初はびっくりしてたが、最後は拍手までしてくれた。真理も染谷もにこにこ笑いながら拍手した。僕はできるだけ他人のふりをしたかったが、無視するわけにもいかず、仕方なく拍手した。

「すごーい、ヤマさん、やっぱり歌うまいねえ」真理がもちあげる。

「すごくいい声。さすがシンプルドリームのボーカルだけありますね」と染谷も礼賛一色だ。確かにうまいといえばうまかったし、なんといっても電車の中でこれだけ朗々と歌えるのはやはり一種の才能である。つまりヤマさんはボーカル向きの性格をしているのだ。すると蕪谷は一度会っただけでヤマさんの才能を見抜いたのだから、それはそれですごいのだった。

ヤマさん、あんまりみんなから褒められたので完全にノってしまって、ではもう一曲、グレープの『精霊流し』です、とまたまた歌いだしてしまった。完全にのど自慢のノリである。けれど一番を歌い終わったあたりで車内のアナウンスが「次は終点、あさくさ~、あさくさ~」と告げ、ヤマさんはまだ歌いたかったようだが、電車は隅田川を渡り、するすると浅草の駅に潜り込み、僕達はどうにか東京に無事着いたのだった。

銀座線に乗り、神宮前という駅で降りた。その数分後、僕とヤマさんは呆然と立ち尽くしていた。圧倒されていた。都会の雰囲気に。都会の人の群れに。ファッションがすごい。坊主頭は皆無である。サラサラの長髪である。指輪をした男も多い。ああ、この空気を吸いながら蕪谷は生きていたんだな、と妙に納得してしまった。

女の子も全部が芸能人のように見える。でもよくよく見ると、染谷や真理の方がダントツに可愛かったが。

そう、真理と染谷は、ここ原宿でも光り輝いていた。まったく違和感がなかった。考えてみれば染谷は小学五年生まで横浜にいたのだ。横浜と原宿の位置関係がすぐさま思い浮かばなかったが、たぶん横浜も原宿も都会度において、たいした違いはないはずである。原宿なんておちゃのこさいさいなのだろう。そんなわけで僕とヤマさんは、颯爽と歩く二人の美少女の後を急いで追うのだった。

最初のお目当てであるキディランドに着いた。地下にあるレコード屋で真理は『ダウンタウン』の入った『ソングス』というLPを買い、染谷はユーミンの『ひこうき雲」を買い、ヤマさんは、前から欲しかったと言っていた『アリス・ファーストライブ』を買い、僕は悩んだ末に、フィービ・スノウの『サンフランシスコ・ベイ・ブルース』を買った。

蕪谷の家は、NHKを横目で見たその先、坂道に沿った閑静な住宅街にあった。高級住宅街といってもよいかと思う。お屋敷ばかりである。蕪谷の家はその界隈でも一際大きかった。正門は鉄の門扉で閉ざされていたが、その先に恐ろしく広い庭があることは容易に想像がついた。森のような庭木の隙間からのぞく威厳のある日本家屋。ガレージにはピッカピカの黒塗りの車。ここは原宿である。東京のど真ん中である。それなのにこの門構えと敷地。

インターホンの前に立った染谷が緊張した面持ちでボタンを押した。しかし昨日から染谷はまるで別人のようだった。いつもの遠慮がちなふんわかした雰囲気からは想像もできないような緊迫した感じだ。今だって誰よりも早くインターホンに手をかけたのは染谷だった。

インダーホンごしに女性の声がした。「どなた様でございましょうか?」

「蕪谷樹一郎さんの友人なのですが」染谷の声は震えてはいたが、意外なほどしっかりしていた。「蕪谷さんはご在宅でしょうか」

しばしの沈黙の後、インターホンの女性はこう告げた。「樹一郎お坊ちゃまはいらっしゃいません」

「何時戻ってこられますか」と染谷。

「当分戻ってきません」取り付く島もない、というやつである。冷たく、つっけんどんである。ああ、そうですか、と踵を返してトットと逃げ出したくなるような応対である。が、それでも染谷は負けない。なおも食い下がる。

「でも、でも、どうにかお会いできないでしょうか? 私達、どうしても蕪谷さんと会って話さなくてはならないことがあるのです。とても大切なことなのです。とても大切で、たぶん蕪谷さんもすごく気にかけていることなのです」

声の主は、少し考えた末に、いくぶん優しい口調になって言った。「あなた方はどちらのお友達?」

「旅人南中学です」

「たびうと? 南、中学? ああイナカの…」声がまたひとつ柔らかくなったような気がした。

「わかりました。今、門を開けます」

通用門から顔を出したのは小柄で痩せた老女だった。割烹着をつけ白髪をきれいに結い上げていた。整った顔だちをしていたが、剣があった。簡単にいえば、シワをとれば美人なのだがちょっと怖そうだったのである。オールドミスの女教師、または眉間にシワを寄せた黒柳徹子といったらよいか。

彼女は正門前で緊張したままコチンコチンに固まっていた僕達をニコリともしないで屋敷の応接間に招きいれた。

老女がいなくなると僕は慣れない皮のソファに凭れかかって室内を見回した。全体的に暗く柱も黒光りしていたけれど、隅々まで掃除がいき届いていて、数々の調度品がほどよく散りばめられていた。

「しっかし、よお」とヤマさんもキョロキョロが一段落すると口を開いた。「びっくりしたなあもう。あいつが金持ちだってことは、そりゃあ予想はついたけどよ、ここまでとはなあ」みんなが一斉にうなずく。

「まあ、あいつの父ちゃんは有名も有名、国会議員でありながら会社を十個だか二十個持っている実業家だ、って話をうちの父ちゃん、町長でもあり、名士でもある山田半次郎はしてたんだけど、でもここまでとはなあ。いやあ、東京の金持ちはスケールがでけえわ。感心したわ」ヤマさん、今度は染谷に向かって言った。「感心した言うたら、染谷さんにも感心したわ、勇気あるなあ。あんな怖い声で門前払いされたのによくビビらずぶつかっていけた」

染谷は顔を真っ赤にしてうつむいている。さっきまでの勇姿のみじんもない、いつものか弱き染谷の姿である。

「染谷さんはどうしてもバンド成功させたいわけだよね、えらいよ、染谷さん」と僕がにんまりし、「なるほど、なるほど、それだけの熱意を持ってもらって、バンド発起人であるこの山田、こんなにうれしいことはありません」とヤマさんが言ったところで突然ドアが開いた。蕪谷か、と一瞬期待したが、入ってきたのは先ほどの黒柳徹子もどきだった。手にはお菓子と飲み物を携えている。

「あなた方に上がっていただいたのは、わけがあります」黒柳徹子もどきが言った。

「わけ?」

「確認しておきますが、あなた方は、樹一郎お坊ちゃまが先日までいらした田舎の中学校の同級生、というわけで、ござあますね」

「はあ、そうで、ござあます」とヤマさん。

「岸田さん、とやらはおりますか?」

僕は宿題を忘れた生徒のようにおずおずと手を上げた。彼女はそんな僕を一瞥すると今度は、「では、山田さんとやらは?」と言った。ヤマさんもこれから日本脳炎の注射を受ける小学生のようにおどおどと手を上げた。すると黒柳徹子もどきは、まさに黒柳徹子のように字がはっきりと浮かび上がる笑い方で笑った。

「オ、ホ、ホ、ホホホ、なるほど、なるほど、オ、ホ、ホホ」

僕はムッとした。笑われるために東京までやってきたのではないのである。

老女はしばらく笑った後にこう言った。「樹一郎お坊ちゃまは現在この家には住んでいません、ただしお坊ちゃまからあなた方にメッセージがあります」

「では蕪谷君は私達がここに来ることを予想してたのですか?」と真理。

「そうです。お坊ちゃまはあなた方が来ることを予想していました」黒柳徹子もどきは勿体ぶって、コホン、と咳をすると、おもむろに紙を取り出した。「その紙に?」一斉に声を上げる僕達。が、黒柳徹子もどきは、「これはただの鼻紙です」と、紙をくしゃくしゃにするとチュンと鼻をかんだ。鼻をかみ終わると黒柳徹子もどきは僕達をまっすぐ見た。

「いいですか、みなさん。お坊ちゃまが仰ったとおりに伝えます」老女はまるで十戒を読み上げるモーゼのように厳粛な声でこう告げた。

…たぶん、ここに中学生が訪ねてくる。一人はジャイアント馬場のような顔をしている。山田という。もう一人はピントのずれたバクのような顔をしている。岸田という。その他にも女の子がくるかも知れない。そいつらが来たらこう伝えてくれ。蕪谷樹一郎は永遠に不滅です。約束は絶対に守ります。学校祭の日には必ずドラムを叩くため旅人南中学に姿を現します。だから安心して練習に励んでくれ。以上、このメッセージは三十秒後に自動的に消滅する」

「蕪谷さんは今どこに?」と染谷。

「じゃあバンドは大丈夫なの?」と真理。

「俺がピントのずれたバクゥ?」と僕。

「三十秒で消滅するって、もしかして、あんた爆発するのか?」とヤマさん。

みんな一斉に口にしたので、言葉が重なって明瞭に聞こえなかった。しかしその中でもやはり一番切実な口調だった染谷の言葉に彼女は反応した。

「樹一郎お坊ちゃまの現在の居場所はあなた方に申し上げることはできません」

「どうしてですか?」染谷が切迫した声音で言った。

「それは旦那様のお言いつけだからです。どなたにもお坊ちゃまの所在をお教えできないのです。ただ、あなた方に伝えたいのは、お坊ちゃまは、今、とてもかわいそうな状況におられる、ということです。私はお坊ちゃまが玉のような赤ちゃんの頃からお世話をさせていただきました。私はお坊ちゃまがお幸せな人生を送られることだけを望んでこれまで生きてきたのです。でも残念ながらこれまでのお坊ちゃまは決して幸せではありませんでした。そうなのですよ。決して幸せではなかったのですよ。樹一郎お坊ちゃまは、あら!」と黒柳徹子もどきは、思わず語り出してしまった自分にびっくりしたように、コホン、と咳をした。

「いや、このお嬢さんが、あまりに真剣な顔つきだったので、つい」老女は染谷に目をやりながら言い訳をすると、けれどこれまでで一番やさしい声音でこうつけ加えた。「そしてこの美しいお嬢さんがあまりにも若い頃の私に似ていたものだから」

すると染谷は数十年後にはこの老女のようになるのだろうか。それはちょっと、いや相当考えものであった。

 

旅人町に戻ってきた時にはもうすでに日はとっぷり暮れていた。結局蕪谷の居場所を訊きだすことができなかった。けれど帰りの電車の中で、とにかく彼のメッセージを信じてバンドの練習をしておこうということで話がまとまった。

みんなと別れると無性に腹が減ってきた。僕は安喜亭に入るとチャーシューメンを頼んで、今日買ったレコード『サンフランシスコ・ベイ・ブルース』を袋から取り出した。

眼鏡をかけた女性の描かれたジャケットを眺めていると頭上で声がした。

「岸田君」顔をあげると真理がいた。

「岸田君の自転車が止まってたから。私もラーメン、食べたくなっちゃった」そう告げて彼女は僕の前に座ると、でも彼女はラーメンではなく冷やし中華を頼んだ。

「今日はびっくりしたね」真理が言った。

「そうだな」

「蕪谷君の家って、私達の家と全然違ったね」

「そうだな」

「でもメッセージ聞けてよかったね」

「そうだな」

「蕪谷君は学校祭には戻ってくると思う。絶対」

「そうだな」

「それまで練習頑張らなくちゃあね」

「そうだな」

「蕪谷君、これまでどんなふうに育ってきたのかな。たぶん、私達には想像もつかないような人生を送ってきたんじゃないかな、って気がするんだけれど」

「そうだな」

「今、どこにいるんだろう。蕪谷君」

「そうだな」

僕が「そうだな」しか言わないので、真理はちょっと怪訝そうな顔をした。が、これには理由があって実は安喜亭のオヤジがラーメンを作りながら睨んでいたからである。夜、中学生の男女が二人きりでラーメンを食べるという行為に対する明らかな非難である。いかがわしいみだらな中学生め、という思いがひしひしと伝わってくるのである。

僕の口が重いと見て取るやついに真理も黙ってしまった。気まずい沈黙の中、そのうちチャーシューメンと冷やし中華がやってきた。が、ひとたびチャーシューメンを食べ始めると、そんな気まずさはどこかに霧散してしまった。オヤジがいかに頑固、かつ古風だとしてもやはりここのラーメンは超一級である。僕は汗だくだくで一気に食べ終えた。満足である。熱いラーメンを真夏に食べてもおいしいというのは、これはもう本物である。

食べ終わると急に真理のことが気になり出した。彼女はほとんど冷やし中華に手をつけていなかったからだ。

「しかし、冷やし中華っておいしいか?」あまりにハシの動かない真理に僕はそう訊いた。

「おいしいよ」真理は言った。それにしては全然ハシが進んでいない。

「あんまりうまそうじゃないぞ」

「おいしいよ、でもあまり食べられないの」

「なんで?」

そこで真理は、まあね、と言ってハシを置いた。

「でも俺はラーメン屋で冷やし中華と中華丼頼むやつの気が知れないな。第一邪道だと思う。うどん屋のカレーと同じくらい邪道だと思う」

「じゃあ、私の気も知れない?」

「そうだな、冷やし中華はさておき、頼んでおいて食べない、っていうのは気が知れないな」

「それじゃあ、気が知れないついでに、もっと気が知れないこと言ってもいい?」

「えっ?」

「つきあって」

「えっ? えっ?」

「明日、一緒に映画、見に行こう」

その言葉の意味を理解するにつれ僕の体が熱くなってきた。つまりこれはデートの誘いなのではないか?

「二人でか?」

「そう」

「映画にか?」

「そう」

「まるでデートみたいだな」

「みたい、は余計」真理の声が震えている。僕は思わず真理を見た。真剣な顔だった。整ったその顔は口がきゅっと結ばれていた。彼女がふざけて言っているのではないことは一目でわかった。

「えー、そうだな、えー、映画な、えー、映画か」すると僕も急にしどろもどろになってしまった。なんたって十五年生きてきて女の子からこうやって面と向かって、いや面と向かわなくてもデートに誘われたことは、いまだかつて一度もない。

「いいのか、俺で」僕は言った。

「いいの、岸田君で」真理は言った。

「まあ、模擬テストも終わったし、蕪谷の件もどうしようもないし、明日はヒマだけど」と僕は意味もなくちょっと背伸びをして、「じゃあ行くとするか」とまるで、仕方ないや、と言った風情で答えた。それでも真理の顔がパッと明るくなるのがわかった。真理は「ごめんね、急に。じゃあ、明日、バス停に九時、大丈夫?」と言うと冷やし中華に手をつけることなく無愛想なオヤジに代金を払って先に店を出ていってしまった。

真理が行ってしまうと顔が自然とフニョフニョしてきた。頭の中をあらゆる妄想がグルグル回りだした。真理は俺を好きだったのだろうか? まさか、そんなはずはない。あんな優等生が。しかも幼なじみだし。これはたぶんウラがあるに決まっている。でもそれにしては随分真剣な顔つきだった。まあ、俺が今までモテなかった方がヘンだったのだ。この少し憂いのあるボーズ頭、ややトローとしたセクシーな瞳、しまりのない、けれどかわいらしい口もと、ピントのずれたバクといったやつがいたが、まったく失礼である。だってほら、俺には数少ないファンがいたじゃないか? 謎のM・Sさんだ。もしかしたら染谷美保かもしれないM・Sさん。もしM・Sさんが染谷で、真理も俺のことが好きだとしたら、これは三角関係、というやつである。それはちょっと困る。バンドの良き人間関係にもヒビが入ってしまう。そういえば姉貴の『セブンティーン』にもこう書いてあった。友達と同じ人を好きになってしまったのですが、どうしたら良いでしょう? 答え、奪いなさい。愛は奪いとるものです。染谷と真理で俺のことを奪いあうことになったらどうしたらいいんだ。いやあ、迷う迷う、どっちもいいオンナだしな、染谷は文句ない美少女だし、真理も理知的な美人だし、モてるオトコは困るわ、と妄想は果てしなく広がり、それにつれてヨダレが込み上げてきた。

ふと我にかえると安喜亭のオヤジが至近距離で僕の顔を覗き込んでいた。「よお、ボーズ、女にデレデレするのは百年早いわ。おまえの父ちゃんに言いつけちまうぞ」

店の外に出ると月が出ていた。明日も晴れのようだった。明日は、相手が染谷ではなかったけれど、でも岸田誠、十五歳、生まれて初めてのデートの日となったのである。

が、自転車に飛び乗り、漕ぎ出そうとして、ハタと思った。

そういえば、真理・坂下は、M・S、だった。

真理だった、の、か?

すると僕はいったいどうすれば、いいんだ?

 

 

 

「人生初めてのデートだったんだ。でもデートじゃなかったんだ」

 

 

次の日の朝、八時半に僕はバス停に立っていた。

いい天気だった。朝から残暑のギラギラした太陽が照りつけている。すごく暑くなりそうだったけれど、僕はこんな残暑の日が好きだった。熱風でぐったりした蝉の、天寿を全うした最後のひと鳴きとか、人ひとり野良犬一匹さえいない校庭の陽炎とか、空が急に黒くなって世界が狂ったようになる夕立とか、ようやく辿り着いた駄菓子屋で口にするアイスとか、テレビから流れる高校野球の応援とか、微動だにしない風鈴と、それでもたまに吹く秋の匂いを忍ばせている風とか、ピントくっきり光の粒子とか。そういう夏の終わりにまつわる様々な情景が、僕はすべて好きだった。

今日の光の粒子もピントくっきりだった。たんぼの色づいた稲穂の一本一本の輪郭も、たんぼの向こうにある神社の木々の輪郭もくっきりしていた。木の一番高いところにある葉っぱの形までくっきり見えた。そんな夏の終わりの向こうから真理がやってきた。空の青を背景に彼女の真っ白なワンピースは、まばゆいぐらいだった。細身の体がとてもしなやかに見えた。

今日ここに来るまでに決心したことがひとつあった。それは、真理とつきあおう、ということである。昨日から頭の中は真理でいっぱいだった。彼女をかわいいと思った。染谷よりもかわいいのではないかとさえ思った。昨日まで何とも思っていなかったのに。相手が自分に好意を寄せている、ということがわかった途端、自分も好きになってしまう。まったくもって現金だとは思う。しかし人間の気持ちなんて、実はそんなものかもしれない。『恋愛は大いなる錯覚である』という言葉をどこかで聞いたことがあったけれど、なんとなく今はわかる。

ああ、今日は真理と一日中一緒にいられる。彼女はどんな映画を観たいのだろう。『エクソシスト』だろうか? すると例の、首が百八十度回ってしまうところで彼女は抱きついてくるかもしれない。薄いワンピースの下の彼女の柔らかい体の熱がはっきり伝わってくるだろう。僕達は映画が終わってもずっと抱きあったまま幸せを実感するに違いない。それとも昨今話題を独占した感のある『エマニエル婦人』だったらどうしたらいいだろう。たぶん男女の刺激的な、けれど美しい場面が目白押しだろう。そんな場面になったら僕はいったいどのように振る舞ったらいいのか。手のひとつも握ってやらなければ男の沽券にかかわるのではないだろうか。しかし、しかし中学生の初デートに『エマニエル婦人』ではあまりにも、刺激が強すぎるのではないだろうか。でも真理がどうしても、というならそれもやぶさかではないのだが。なんてことを考えていると自然と口が半開きになりヨダレが垂れてきた。

肩を叩かれた。飛び上がらんばかりに驚いた。振り向いてもっと驚いた。ヤマさんのムボーとした顔がそこにあったからである。

「ヤ、ヤ、ヤマさん!」

ヤマさんがニヤニヤしている。僕は一気に頭に血が上ってしまい、「ヤマさん、違うって、誤解だって、違う、そんなんじゃあねえんだ、俺と真理が、なんてそりゃ誤解もいいとこだ。今日はたまたま『エクソシスト』か『エマニエル婦人』を観に行くかって、偶然そうなっただけで、ヤマさんにも連絡しようと、まあ、そう思ってるうちに朝になって」と血迷ったことを口走るのだった。

「マー、おまえ、何、言ってんだ」

「えっ?」

「『エクソシスト』に『エマニエル婦人』って、マー、何言ってんだ?」

「や、だから…」

「今日、このバス停に九時、みんなして集まろうって、昨日、染谷さんから電話あったろ、なんかとっても重大な相談があるからって染谷さん、言ってたろ」

「えっ、染谷さんから電話? 昨日?」

「そうよ、昨日、電話あったろ? だからおまえ、ここに来たんだろ」

「あ、あ、そうだった。電話、あった、おう、そうそう、忘れてた」

「な、マー」

「な、なんだ、ヤマさん」

「おまえ、なんかあっただろ、匂う、言ってみ、俺ら、親友だろ」

「べ、べ、別に何もないって」

ヤマさんが怪訝そうに僕の顔色を伺っている。僕は気取られないように口笛を吹きだした。もちろん口笛を吹きながら僕の灰色の脳細胞はこの新たな局面にどう対処してよいのか懸命に計算していた。すると染谷さんは僕の家にも電話をしたのだろうか? 昨日、僕はできるだけ家の者と顔を合わせないで早く寝てしまい、今日の朝もできるだけ家の者と顔を合わせないようにコソコソ出てきたから、もしかしたら電話はあったのかもしれない。でも、一体どうしたというのだろう。今日は僕と真理の記念すべき初デートの日のはずだったのに。

その真理が近づいてきた。が、染谷も一緒にやってくるではないか。真理がヤマさんに気づかれぬように手を合わせている。ゴメン、という合図のようだった。やはり昨日、デートの予定を変更しなければいけない何かがあったのだ。

今日の染谷は水色のTシャツに花柄の少し短いスカートを穿いていた。くっきりはっきりかわいらしい染谷を見てヤマさんの顔がすでにデレーとしているのがわかる。僕もデレーとしかかって、けれどハッとして視線を真理に向けてからデレーとすることにした。

と、その時バイク音が聞こえてきた。二人乗りのバイクが目の前で急停止した。後ろに乗っていた男がバイクから降りてフルフェイスヘルメットを脱いだ。

ダースコだった。その顔を見て時間が止まった。

眉がなかったのである。

人間、眉がないと相当異様な、言い換えれば凶暴な顔になる。もうこれだけで普通の人は近づかないだろうっていう顔になる。

さらにだ。バイクの運転席にまたがった男がフルフェイスヘルメットを取り、鋭い視線で一瞥した。伝説の凶暴男、三谷だった。再び時間が止まった。

なぜなら三谷の顔には眉毛どころか、頭髪さえもなかったからである。

しかも、二人とも、ところどころに難しい漢字の刺繍が入った真っ白な特攻服を着ている。

「おまえら、ダースコのダチだな。いいか。困ったことがあったらなんでも言え。俺がなんとかしてやる。俺に、俺らに、俺らのチーム『ブラックエンペラー』に、不可能の文字は、ない。なんたって、エンペラーだからな」

三谷は、ドスの利いた声でそう告げると、バイクのすさまじい爆音を残して、風のように去っていった。

 

 

「相談というのは蕪谷さんのことなんです」

バス停近くの喫茶店に入り、奥のテーブル席に座ると、さっそく染谷が話し出した。

「実は昨日、帰ってから、どうしても納得がいかなかったのでまた東京の蕪谷さんの家に電話をしてしまったのです。あのおばあさんが出ました。そう、黒柳徹子さんみたいなおばあさんです。私はこう言いました。今日蕪谷さんがとても不幸な境遇にいる、とおっしゃいましたが、そのことについて、もう少し詳しくお話し願えないでしょうか、と。私達にできることがあれば、蕪谷さんのお役にたてることがあれば、なんでもやる覚悟です、と。するとその黒柳さん、お名前をフサさん、というのですが、フサさん、しばらく何か考えているようでした。ずいぶん長く考えてから、彼女はとても重要なことを教えてくれました。

ひとつは蕪谷さんの生い立ち、ひとつは現在の居場所、もうひとつはかつて蕪谷さんに起こった悲劇についてです」

ダースコのない眉が、ピク、と動いた。ような気がした。

それはこんな話だった。

 

蕪谷樹一郎の父、蕪谷惣一は岩手で生まれた。実家は普通の農家だったという。十五才で上京、以来、卸問屋、土建屋、不動産業と職を転々とすることとなる。さまざまなノウハウを体得、戦後の混乱期に借金しては土地を買い漁りバラックのような家を建てては売る、という手法で莫大な財を築く。スープを飲む手つきだけがあざやかな没落貴族から原宿の邸宅を買い取ったのもこの混乱期であったという。もちろん裏では相当なこともしたであろう惣一、時宜を得ていよいよ政界に進出する。地元岩手から衆議院議員として立候補し当選、以来保守党の中堅議員として現在に至る。ひとことでいえば、一代で財をなした政治家である。

樹一郎の母親は女優だった。結婚後、引退はしたが、自らブティックやレストランを経営するなど事業家として華々しく活躍した。当然樹一郎の育児はフサにまかせっきりだったという。フサと広い邸宅で過ごした彼の幼年期は体が弱く、あまり外出もせず静かに本を読んでいるような子だったという。小学校時代もどちらかといえば物静かな子だった。父も母もとにかく忙しかった。家族は皆、すれちがいの日々だった。彼は広い邸宅にほとんどフサと二人きりで過ごし、成長していったのだ。

樹一郎は名門小中一貫校に入学する。が、中学一年の時、突然彼は学校に行かなくなる。以来、蕪谷は昼間はひたすら部屋に閉じこもり、夜は外出し朝まで帰ってこないという日々を送ることとなった。それまでほとんど樹一郎を顧みなかった両親は、ようやく樹一郎に目を向けるようになった。母親は学校へ行けと説得する。父親は怒鳴る。けれど樹一郎はますます自分の殻に閉じこもってしまう。親は途方にくれた。世間体も悪かった。唯一の跡取り息子が学校に行かなくなってしまったのである。両親は引きこもりを治そうとカウンセラーを家に招いた。占い師やら風水師やら、はては祈祷師さえも連れてきた。けれど彼の素行は治らなかった。

そんな折り、ある事件が起きたのだった。

「ある事件?」ヤマさんが訊き返した。

「そうです。ある事件です。蕪谷さんにとってすごく辛い事件、悲劇だった、とのことです」

「どんな事件なの」と僕。が、染谷は小さくかぶりを振ると、溜め息をついた。

「フサさんは、もし知りたければお店に行って訊きなさい、としか教えてはくれませんでした」

「お店?」

「蕪谷さんには、夜、毎日のように入り浸っていた店があったのだそうです。ライブハウス、と、言ってました」

「ライブハウスに。だからあんなに楽器が得意だったんだ」と僕。

染谷はうなずくとまた話を続けた。

その事件以来、樹一郎はこれまで以上に、殻に閉じこもってしまった。一日中部屋に籠もり、まったく顔を出さなくなった。昼間はもちろん、それまで毎夜通っていたそのお店にさえ行かなくなってしまった。無理やり部屋から出そうとすると、凄まじく暴れた。これまで、まったく暴力的でなかった、いや、常に優しく温和であった樹一郎が、である。そう。それはまるで大都会の真ん中に突然出現したハリネズミのようだった。鋭い棘に覆われた硬い皮の中に閉じこもってしまったハリネズミ。

けれどある日、突然、彼は自分の部屋のドアを開けた。知らせを聞いて駆け付けた親にこう告げたのだ。どうしても『旅人』町に行きたい、と。今度こそは学校にちゃんと行くからぜひ転校させてくれ、と。父親はそんな樹一郎にこう言った。実はおまえのことは半分見限っていた、だからある施設に入れようと思っていた、けれどそこまで言うならもう一度チャンスを与えよう、と。

「そうして蕪谷さんは私達の学校に転校してきたのです。でも結局、学校には行かなかった。だから蕪谷さんのお父様もついに怒ってしまった、ということらしいのです」

「で、蕪谷は今どこにいるんだ?」とヤマさん。

が、染谷はその問いに答えなかった。染谷が人の話を、ましてやヤマさんの問いを無視することは有り得なかったから、単に聞こえなかったのかもしれない。

「お店の名前は『希望回復委員会』というのだそうです。場所は蕪谷さんの家の近く。北青山にあるそうです」

まったくライブハウスらしからぬ名前である。だいたいライブハウスはかっこいい名前がついているのが世の常なのだ。たとえば「ケントス」とか「ピットイン」とか「ピテカントロプス」とか。それが『希望回復委員会』?

「うーん。とにかくそこに行くことがまず第一歩かもしれないな。うーん。蕪谷を助ける第一歩はまずそれだな。『希望回復委員会』だ」ヤマさんが言った。

僕は混乱していた。登校拒否。引きこもり。ある事件。『希望回復委員会』…。あまりに情報が多すぎた。

みんなが黙り込むと、さまざまな音が耳に飛び込んできた。BGM。店員の声。客の声。グラスの触れ合う音。料理を作っている音…。いつしか僕は蕪谷の、生まれてからこれまでの人生を夢想していた。広いお屋敷でたった一人で育ってきた蕪谷。その事実を思っていた。彼が背負っていたさまざまな哀しみが、そのすべてがわかったわけではないが、それでもなんとなく理解できた。僕や普通の中学生が空気のように当たり前に思っていて、時には鬱陶しいと思っている家族の愛を、彼はまったく受けられない境遇で育ってきたのだ。そこで僕は、はっとした。そういえば染谷もそうじゃないのか。彼女もまた、理由はわからないけれど小学五年生の頃にはもう親がいなかった。もしかしたらまだ生きているのかもしれないし、その事情はわからないが、彼女もまた僕達の前に現れたときにはもう家族がなかった。蕪谷の、夜の啄木鳥にも似た攻撃性を思い出した。染谷の、変わらぬ柔らかさを思い出した。蕪谷と染谷はもしかしたらコインの裏と表なのかもしれない。なぜかそんなふうに思えてならなかった。

そんなことを考えていると、ヤマさんが、「ねえ、染谷さん。で、今、蕪谷はどこに居るんだ? フサさんは、何か言ってた?」と再び訊いた。

みんなが染谷を見た。

異変が起きていた。

染谷の、形のよい鼻梁が、いつもほのかに笑みを浮かべている唇が、黒目がちの大きな瞳が、そのすべてが、不安のためなのか怖れのためなのか、あるいは僕達のまったく伺い知れぬ事情のためなのか、小刻みに震えていた。

染谷が口を開こうとした。言葉が出てこない。何度も彼女は話そうとしていた。けれども言葉にならない。何度も何度も、話そうとしていた。染谷の目から涙が溢れてきた。体が大きく震えた。

ようやく言葉を発した。

「雛乃沢…ダイビング…」

そこまでだった。染谷は一瞬立ち上がり、けれども全身の力が急に抜けて倒れ込んでしまったのだ。

「美保!」真理が思わず手を差し出して染谷を受け止めた。

「染谷さん!」僕もヤマさんもダースコも思わず、声をあげた。

染谷は真理に体を預けたまま、ぎゅっと目を閉じている。幼児のように真理の腕の中で身を縮ませ震えている。あまりに突然の事態に、僕達は誰も言葉を発せなくなっていた。

いつしか真理は染谷の頭を撫でていた。幼児をあやすように頭を撫で続けていた。

いったいどのぐらいの時間が過ぎただろう。美しい少女が美しい少女に抱かれている光景は、事態の深刻さを差し引いてもなお、夢のようだった。まるですごくよくできた印象派の絵画のように、それは静かにそこにあった。染谷の目から涙が止めどもなく流れていた。声を出すこともなく、染谷は号泣していた。真理はただ染谷の頭を撫で続けていた。今、彼女達はたったふたりだけの世界にいた。彼女達の心の中には僕もヤマさんもダースコも、この世界のすべてがないかのようだった。

それからまた恐ろしく長い時間が過ぎた。染谷がびくん、と体を震わした。真理の腕の中からそっと自分の体をはずすと、ふらふらと立ち上がり、そのままトイレに姿を消してしまった。染谷がいなくなると真理は、ふうっと大きく息を吐いてソファに倒れこみ、静かに目を閉じた。

ヤマさんが絞りだすように言った。

「いったいどうしたって?」

「愛しているの」目を閉じたまま、真理が言った。

「えっ!」

「美保は蕪谷君のことを、愛しているの」

愛している。すごい言葉である。僕達は中学三年生である。十五歳である。ダースコは誕生日が来てないから十四歳である。でも、染谷美保は蕪谷樹一郎を、愛している。

ヤマさんもダースコも茫然自失といった態である。彼等にとって天使である染谷美保が男を好きになるなんて、いや愛するなんて到底信じたくないであろう。僕だって昨日だったら目の前が真っ暗になっていたことだろう。でもなぜか今日は冷静だった。染谷だって人のことを好きになる、それは当然のことだ、と素直に思えた。その相手が、少しばかり残念ではあったけれど、蕪谷樹一郎だった、というだけで。

僕は真理を見た。すごく疲れているようだった。僕はそんな真理を見つめているうちに胸が熱くなった。これが人を好きになる、ということだと思った。たぶん染谷も蕪谷に対して、いつかは知らないが、そのような気持ちを持ったのだ。だからこそ不幸な境遇に置かれている蕪谷にどうしても会いたいと思っている。その気持ち、痛いほどよくわかった。もし真理が蕪谷と同じ境遇にいたら。僕だってなんとしても会いたいと思うだろう。それが人を好きになる、ということなのだ、と思った。

それにしても染谷の涙にはいったいどんな意味があるのだろう。声は出さなくても、静かに泣いていたからこそ、彼女の涙の理由はすごく深い、そう思えてならなかった。彼女を追い詰めたものはなんなのだろう。もちろん蕪谷が置かれている状況が想像より悲惨だった、ということもあるだろう。会いたいのに会えないということもあるだろう。でも。彼女の涙はもっと深いところから溢れ出た涙のような気がしてならなかった。

ところでヤマさんとダースコは、まったくもって泣き出しそうな声でオヨオヨしている。「あ、あ、愛してる、っちゃいってもよ、染谷さん、と蕪谷は、そのう、いつ、まあ、そんなふうに、なったんだ」とヤマさんが言えば、「あ、い、して、る、ちゅうことは、まさか、染谷さん、と蕪谷は、よお、もしかしたら、よお、AとかBとか、まさかCとか、ま、ま、ま、まさか、Dとかよ、そんなふうにもうなっちまってる、なんてことが、ある、の、か?」とダースコはダースコでダースコらしい発想をする。

真理が「そんなこと、あるわけないでしょ」と目を閉じたまま、言った。

「じゃあ、なんでやつと染谷さんがそうなるんだ?」とヤマさん。

だから、と真理は、しょうがないな、といったふうに薄く目を開けると答えた。「あのね、パンチDEデートの合い言葉は?」

「ひとめあったその日から」とヤマさん。

「恋の花咲くこともある」とダースコ。

「そう、つまりひとめぼれ」と真理。

ヤマさんは腕を組んで天をにらんでいる。ダースコは貧乏ゆすりをしている。

「あっ」真理は、突然、啓示を受けたモーゼのような小さな叫びをあげた。

「違うな。ひとめぼれじゃない。今、わかった。美保はひとめぼれじゃない。そんな軽々しいものじゃない。美保は待ってたのよ。ずっと待っていたのよ。蕪谷君を。ずっとずっと待っていたのよ。今、わかった。はっきりわかった。美保にとっての蕪谷君は好きとか嫌いとか、そんな存在じゃないってことが。ただ、運命の人。美保にとって蕪谷君は。たぶん蕪谷君にとっても」そこまで話して真理は赤いソファに身をゆだね目をつぶってしまった。

染谷はずっと戻ってこなかった。痺れを切らしたヤマさんが、「なあ、坂下さん、トイレ、見に行かなくていいの?」と訊いたけれど、真理はそれでも目を閉じたまま、小さく首を振って、いいの、と一言つぶやくだけだった。

 

 

バス停でみんなと別れると、僕は一人で興文堂に入った。別れ際、真理がみんなに聞こえないように、本屋さんで待ってて、と告げたからだった。

本屋のおばさんの死角に立つと、本を手に取ることもせず、ただぼんやり書棚を見つめていた。あの後、染谷は地球が一回転するぐらいの時間、トイレから戻ってこなかった。ようやく戻ってきた染谷は目を真っ赤にしたまま、ごめんなさい、と小声で言った。帰り道、染谷のことは真理がずっとエスコートしていた。二人の間に僕もヤマさんもダースコも入ることができなかった。

肩を叩かれた。振り向くと真理が立っていた。

 

真理はいつもの凛とした歩き方でなく、下を向いてようやく足を動かしていた。

いつしか町の外れに来ていた。

ずっと僕は真理の存在をすぐ横に感じながら、二人の距離が少し離れていることを感じながら歩いていた。神社があった。僕と真理はたがいに無言のまま、境内に入っていった。蝉の声が急に大きくなった。

「ごめんね」石のベンチに並んで腰かけると、真理が口を開いた。「昨日、美保から相談したいことがある、って言われて断れなくなっちゃって。怒った?」

「怒る、わけ、ないだろ」僕は答えた。

「昨日、岸田君ちに電話したら、もう寝たって言われて、今日の朝も電話したら、もう家にいないって言われて、だからちゃんと説明できなくて、ごめんね」

それは僕のほうが悪いのだ。

「でもびっくりだった」僕は言った。

「何が?」

「染谷さん。あいつが、そんなに蕪谷のこと想っていたなんて。真理、知ってたの?」

「知ってたよ」

「そっか。じゃあ蕪谷は知ってるの、染谷さんの気持ち?」

「知らない、と思う」

「じゃ、片思い、か」

真理がうなずいた。「美保の気持ちってすごく純粋なの。すごく情熱的なの。だから私も勇気づけられた」

「なあ、真理」

「何?」

「M・Sって、おまえ?」

「えっ?」

「だから、ラジオのM・S」

真理は黙っている。

「つきあいたい」僕は言った。

「えっ?」

「つきあいたい」僕はもう一度、言った。

僕はたぶんすごく緊張した声をしていたんだと思う。真理がちょっと笑った。でも、すぐ真顔になって「ありがとう」と言った。

何か話さなくちゃ、とそればかり考えていた。けれど何も話せなかった。いつもは普通に、なんの構えもなしで言葉が出てくるのに、今はどうしても話題が見つからなかった。すると真理と僕の肩が触れた。真理の肩が揺れていた。肩が揺れている、というより、彼女の心臓の鼓動が肩を通して伝わってくる、という感じだった。僕は首をあまり動かさないで真理をそっと見た。真理はまっすぐ前を向いて、目の前にある大木のそのまた向こうの森を見つめながら何か真剣に考えているようだった。僕の視線に気がつくと、真理は我に返ったように、びくん、と体を動かした。その時、右手の指先に何かが触れた。真理の指だった。真理の指が僕の指をぎこちなく求めていた。手を握る、というのではなく、お互いの指先のほんとの先が少し触れ合った。それでもその触れ合ったところから全身に電気が走った。

突然記憶が蘇った。昔々、幼稚園の頃の記憶だ。僕と真理はよく手を繋いでいたなあ、という記憶だった。そうだ。僕達はいつも手を繋いでいた。幼稚園バスに乗っている時も、お遊戯をする時も、ばあちゃんに連れられて近所の駄菓子屋に行く時も。僕の隣に真理がいることは、手を繋いでいることは、ある時期まですごく自然なことだった。こんなふうに電気が走ることもなく心臓の鼓動が大きくなることもなく、普通に手を伸ばせば、そこに真理の手があった。そうだ。小学校の入学式も手を繋いで行ったんだ。いつからだろう。手を繋がなくなったのは。

真理の手が突然、僕の手をしっかりと握りしめた。えいっ! て感じだった。

「懐かしい」真理が、小さな声で言った。

「え?」

真理は少し笑うと、「私、つきあうなんて思ってもみなかった」と言った。

「ただ手は繋ぎたかった。つきあうとかそういうのは全然考えなかった」

「そうなんだ」

「嫌? 手、繋ぐの?」

「嫌じゃないよ」

真理はようやくほっとしたように、体中の力を抜いてもっと自然になるよう手を握り直した。「私、ずっと岸田君の手の感触、忘れてた。でもある時、突然思い出したの。そういえば、小さい頃、岸田君と手を繋ぐこと、好きだったなって」

どう答えていいかわからなかった。

「それを思い出してからすごく手を繋ぎたくなったの」真理は握っている手に少し力を込めて言葉を続けた。

「ずっと覚えていたよ。岸田君が私と手を繋ぐことを拒否した日のこと」

思わず僕は真理の顔を見た。真理は怒っているふうでもなく、

「小学一年の一学期が終わる日。終業式の日。覚えてる?」と言った。

僕は首を振った。まったく覚えてない。

「初めて通信簿もらった日。一緒に下校するとき、ほらあの頃って、集団下校だったでしょ。で、みんなとそれぞれの家の近くでバイバイして、いつも私達、最後の最後に二人きりになったじゃない。そこから私の家の前まで必ず手を繋いで帰ったじゃない。覚えてる?」

そう言われてみればそうだったような気がして、小さくうなずいた。

「でね、その日も私は二人きりになったところで、いつものように手を伸ばしたの。そうしたら、岸田君、駆け出して行っちゃった。覚えてる?」

「えっ? えっ? ほんと?」

真理は、ちょっと笑うと言葉を続けた。

「そうなの。すごくよく覚えている。その時の情景。自分がその時、着ていた服から入道雲の形から草の匂いから、岸田君が全速力で走り去っていく後ろ姿まで」

これまた何と答えていいかわからなかった。はっきり言って、まったく覚えていなかった。でもそうか。そうだったのか。だから僕達は手を繋がなくなったんだ。

「誤解しないで。これっていい思い出なんだ。すごくいい思い出。もちろん、その時はなぜか泣いちゃったけど。岸田君の姿が見えなくなって、一人ぽつんと取り残されて。泣きながら家に帰ってお母さんに話したの。そうしたらお母さんがすごく笑って、マーちゃんも恥ずかしくなったのよ、って、大きくなった証拠よ、って。男の子は大きくなると女の子と遊ばなくなるのよ、手も繋ぎたくなくなるのよ、って。でももっと大きくなるとまた女の子と手を繋ぎたくなるのよ、って。その時、真理が、まだマーちゃんと手を繋ぎたい、と思っていたら、真理の方から手を繋いであげなさい、って。拒否されるかもしれないけどね、って。お母さんがそう言って笑ったんだ」僕の言葉を待つことなく真理は「拒否されなくて、よかった」とつけ加えた。

「でもね。ほんと言うとあれからしばらく寂しかったんだ。その日から岸田君は私の中でマーちゃんじゃなくて岸田君になったの」

日の光が神社の奥まで差し込んでいた。オレンジ色の日の光だった。いつのまにか夕暮れが来ていた。昼間は瞬間湯沸かし器みたいだったけど、気づくと秋の気配がそこにあった。

 

僕と真理は家の近くまで来ていた。神社からずっと手を握り合ったままだった。夜になっていた。古い過去を覗くような風が頬を撫でて去っていった。

真理は家に着くと、そっと手を解き、僕の方に向き直った。

「最近ね。思うことがあるの」真理が言った。

「何?」

「人を好きになるってすごくいいな、っていうこと」けれど真理は、自分の言葉に照れたのかちょっと笑って、とにかく蕪谷君のこと、美保のこと、みんなでなんとかしようね、あと、練習もしておこう、帰ってきた蕪谷君にバカにされないように、と言い残して家に入っていった。

 

家に帰ると、茶の間を素通りし、まっすぐ自分の部屋に向かった。家族の誰にも会いたくなかった。手にはまだ真理のぬくもりがはっきり残っていた。肩には真理の体温がはっきり残っていた。胸の奥底がむずがゆかった。それがすごく心地よかった。真理がすごく愛おしかった。真理の笑顔がずっと頭から離れなかった。

とにかく誠よ、今日はすごい日なんだぞ。言葉にして言ってみた。すごいすごい日なんだぞ。すごいすごい、すごい日なんだぞ。一生忘れない日なんだぞ。目をつぶった。一生右手を洗わない。そう決心した。真理の手のぬくもりが消えるのが怖かった。 怖い? また怖い、だった。蕪谷が、言っていた「怖い」。川を見つめながら。真理も言っていた「怖い」。修学旅行の夜。京都のひなびた旅館の階段にふたりで腰掛けながら。僕も怖かった。真理の手のぬくもりが消えることを。このぬくもりのもたらす幸せがなくなることを。真理を失うことを。昨日から今日にかけての出来事が走馬灯のように瞼をよぎった。四人で電車に乗って東京に出かけたことがずいぶん昔のように思える。キディランドでレコードを買ったことや、蕪谷の家を訪れたことや、安喜亭で真理から映画に誘われたことや、バス停にやってきた真理の眩しいぐらい真っ白なワンピースや、朝日の中ではっきりくっきり見えた木々の緑や、蕪谷の生い立ちや染谷が突然泣き出したことや、真理と誰もいない夕暮れの神社でそっと手を繋いだことや、そうしたいくつもの記憶が脈絡なく現れては消えていった。

それでもずっと幸せな気持ちはなくならなかった。もちろん、蕪谷のことは憂慮すべきことだった。そういえば染谷にも両親がいなかった。彼らは、僕達が当然ある、と思っている家族の愛を感じることができない境遇にいた。そんなこと、これまで真剣に考えたことはなかった。僕達はみんな普通だと思っていた。みんな違うのだ。ダースコにもお父さんはいなかった。染谷の涙が脳裏に浮かんだ。小さな、あるいは大きな、さまざまな悲しみが僕の周りにも実はたくさんあることに今日、初めて気がついた。小さな、でも大きな、さまざまな愛が僕の周りに実はたくさんあることに今日、初めて気がついた。染谷の蕪谷に対する気持ち、愛しい人を助け出したいという悲しすぎるほど真剣な気持ち。真理の横顔が浮かんだ。すると僕は幸せになった。真理を考えただけで僕は幸せになった。昨日買ってきたフィービ・スノウのレコードを取り出して、ターンテーブルに乗せた。『ポエトリーマン』が流れてきた。この曲が聴きたかった。温かくて、乾いていた。聴いた瞬間から永遠の名曲だった。

 

 

 

chapter.10

「夕暮れの河原、僕と真理と、蕪谷だけの、川の音」二学期になった。朗報があった。シンプルドリームの学校祭出演に正式許可が下りたのである。これはもう山田正義、坂下真理、染谷美保、という優等生トリオの信頼の賜以外の何ものでもなかった。だか[…]