WEB/STORY「哀しき70’s Kids」ch.13

 

「そのとき、僕たちはたったの中学三年生だったんだ」

 

光が差し込んでいる。

一瞬僕は自分が森の奥深くにいるように思えて飛び起きると、そこは吉田さんの家の応接間だった。朝の光が応接間に舞う淡い塵にキラキラ反射していた。人の気配がして振り返るとそこに真理が座っていた。彼女がなぜここにいるのか一瞬わからず、けれど寝る前の吉田さんとのいきさつを急に思い出して、真理の顔をまともに見ることができず、僕はごまかすようにぎこちなく笑った。

 

 

 

chapter.12

WEB/STORY「哀しき70's Kids」ch.12 「俺は、最低の男、なんだ、、、」  吉祥寺駅を降りると改札口で手を振っている女性がいた。「吉田真奈さん。私のピアノの[…]

 

 

「岸田君、よく寝てた」

「えっ?」

「私、ずっと岸田君の寝顔見てた」

真理がちょっと照れたような笑みを浮かべた。

 

 

起きてきた吉田さんは思いきり不機嫌で、特に言葉を交わすことなく僕と真理をワーゲンの後部座席に乗せると、それからもずっと無言で運転していた。

染谷は、外苑銀杏並木にぽつんと立っていた。顔色はすぐれず、緊張と疲れの入り交じった顔をしていた。いつもの輝くような染谷スマイルもなく、言葉少なに助手席に乗り込んだ。

「えーとね、『雛乃沢ダイビングスクール』はね、房総半島の突先にあるから、うーん、まあ、この車だとそうだなー、まだ四時間ぐらいかかるかも。でも昼過ぎには着くと思うんだけどな、うーん」と吉田さんは都内を抜けて随分経ってからようやく口を開いた。それでも僕達はみんな無言だった。僕はいまだ真理の顔をまともに見られずにいた。吉田さんの顔も見られずにいた。気まずさだけが僕の心を占めていた。真理に隠しておいたほうがいいのだろうか。でも隠すなんてできるだろうか。隠したまま、今までどおり屈託なく真理と笑うことができるだろうか。昨日の出来事を知ったら真理はどう思うだろうか。笑って、まあ、君も健全な男子中学生だしね、と軽くいなしてくれるだろうか。それとも不潔なものでも見るように僕を見て、僕のもとから去っていくだろうか。悲しむだろうか。心を痛めるだろうか。そんなことを考え始めるとこの場から逃げ出したくなるほどだった。そんな重荷を背負わせた吉田さんさえも恨めしく思うのだった。

その時、真理が僕の手を握った。

僕は昨日までとは全く違った感触に戸惑っていた。

昨日まではすごくぴったりしていた僕と真理の手の間に、膜のようなものができた感じだった。

それがすごく悲しかった。

誰もが無口だった。

誰もが心に重いものを抱えていた。

吉田さんだけが時折、独り言を呟いていた。「この車、叔父さんから貰ったんだけど、だから古い車なんだけど、だからけっこう故障するんだけど、だから途中で停まったらみんなで押してね」なんて独り言を。

 

 

僕達は途中、道沿いのドライブインに入って昼ご飯を頼み、僕も真理も染谷も、吉田さんも、頼んだ物の半分も食べられず、そうしてまた車に乗り誰もが無言で海沿いの道を南下し、結局房総半島の突端の小高い丘の上に建つ『雛乃沢ダイビングスクール』に着いたのは午後二時のことだった。

『雛乃沢ダイビングスクール』は想像以上に立派な建物で、南欧の高級リゾートホテルのような外観をしていた。

人の気配のまったくない、だだっ広い駐車場に車を停めると吉田さんは、さて、どうしようか、と誰にともなく言い、するとそれまでずっと無言だった染谷が、「私、受付に行って来ます」ときっぱり言った。

「じゃあ、私も行く」真理が乗り遅れまいとするように言った。

「お、俺も、行く」だから僕もちょっとつっかえながら言った。

「わかった。じゃあ私は車で待ってる。ここは君達に任せた。その方がいいって私は思ったよ」と吉田さんは言うと運転シートをリクライニングさせて目を閉じた。

「君達、頑張りなー。健闘祈る。私は寝る。疲れた。というか二日酔い」

 

 

秋なのに、むっとするぐらい暑い日だった。それでも四階建ての立派な建物は、どこか寒々としていた。あまりに素っ気なく、窓も少なく、壁はすべて大理石で、大きな一枚板の看板には墨で『雛乃沢ダイビングスクール』と書いてあって、人を圧する力のある、学校というより、信仰宗教の総本山のような建物だった。

ここのどこかに、蕪谷が、いる。

身震いがした。

ふと見ると染谷の顔から血の気が失せていた。

「美保、大丈夫?」真理が染谷の肩を抱いて支えようとする。「私と岸田君で行く?」

だが染谷はその手を振り払うように激しく首を振った。

「私が行かないと。私が行ってあげないと」

「でも」

「怖い」染谷が、か細い声で呟いた。

「だから…」

「でも闘う」

怖い、でも闘う? 図らずも、かつての蕪谷と同じ言葉。

染谷が建物に向かって足を踏み出す。細い身体は、その先にある戦艦のような建物の前で、まるで木の葉の舟のように儚い。一歩踏み出すごとによろける染谷を、真理が必死で支えている。

染谷の気持ちは痛いほど理解できた。蕪谷に会いたいと思う気持ち。一刻も早く助け出したいと思う気持ち。ここまで来て怯みたくない、という気持ち。怖くても、身体が拒否をしても、乗り込もうとする、その意志。

だが、染谷の体は、全身でこの施設を拒否していた。だから、「少し休んでからにしようか」と背後から声をかけようとした、その時だった。

染谷の身体が一瞬、びくん、と飛び跳ねるように大きく震えた。次の瞬間、身体全体から力が抜け、染谷はその場にしゃがみこんでしまった。慌てて真理が染谷の身体を支え、立ち上がらせる。

染谷の足元に、小さな水溜まりが出来ていた。

僕は一瞬呆然とし、すぐに顔を背けた。見ちゃいけない、と思った。

染谷は意識を失っているようだった。ぐにゃりと力の抜けた染谷を、真理は引き摺るように吉田さんのワーゲンのところまで連れていくと、寝ていた吉田さんを起こし、染谷を車の中に押し込んだ。自分も車に乗り込み、僕の方を見て言った。

「岸田君、ちょっと待ってて。ちょっと買い物。着替え、買えるところ捜してくる」

 

ワーゲンが駐車場から出て行ってしまうと、当然だが、僕は急に独りぼっちになった。急に潮の匂いがきつくなった。染谷の足元の水溜まりの映像を頭から振り払おうとした。できなかった。仕方のないことなのだ。すごく怖かったのだ。それでもなお闘おうとしたのだ。仕方のないことだった。

いつしか舗装されていない小径を、潮の匂いのする方へ歩き出していた。

松林を抜けると、不意に海に出た。

空は痛いほど青く、雲一つなかった。海は深い群青で、砂浜はアラビアの絨毯のようだった。水平線の遠くから波のうねりがゆるやかにやってきて、岸と沖のちょうど中間で静かに割れていた。波が割れる瞬間、無数の白い泡が空に散った。

誰もいない浜だった。僕はたった一人だった。少しばかり強い風が吹いていた。

砂浜に座って海を眺めた。白い海鳥が海面のうねりにうまく自分を合わせながら浮かんでいる。

小さな砂丘があって、へばりつくように植物が群生していた。夏の忘れ物のように、白と淡い紫が入り交じった花が咲いていた。

これが浜昼顔なのか、とぼんやり思う。本物を見るのは初めてだった。小学校の頃、それも低学年の頃、国語の教科書に『はまひるがおの小さな海』という話が載っていた。詳しい筋は忘れてしまったが、静かな話だったことだけは記憶している。はっきり覚えているのは、先生に指されて、起立して、背筋をぴん、と伸ばして、教科書を両手で持って、この話を朗読する真理の姿だ。暗い教室だった。比喩ではなく、たぶんその日は雨模様で、空も灰色で、しかも五時間目で、みんなどこかどんよりしていて、だから実際に蛍光灯が点いていても薄暗かった。こんな時、先生は大抵真理を指した。彼女なら、澱んだ空気を浄化してくれるだろう、という意識が働くためかもしれなかった。実際、真理が朗読すると、空気が浄化された。読み終えると真理は、背筋を伸ばして、すとん、と椅子に座った。

目の前の海はどこまでも穏やかで、優しく、神々しかった。突然、思い出した。そういえば『はまひるがおの小さな海』は、小さな磯だまりに取り残されたお魚を、浜昼顔が助けようとする話だった。浜昼顔を摘み取ると雨が降る、という言い伝えがあって、だから浜昼顔は、磯だまりの水が蒸発していってお魚が弱っていくのを見るに見かねて、旅人に、自分を摘み取ってください、と頼むのだ。

結末は忘れた。旅人に摘んでもらって、自分の命の代わりに魚を助けたのか、結局水は干上がってしまい魚は助からなかったのか、そのあたりは忘れてしまった。けれど話全体に漂う静かな孤独さ、浜昼顔の神々しさが印象に残る話だった。

染谷の水溜まりも、静かに孤独で、神々しかった。

海はどこまでも穏やかで空はどこまでも晴れ渡っていた。

動揺はいつのまにか収まっていた。染谷を笑顔で迎えたい、そう思った。

一瞬海鳥の鳴き声が聞こえたような気がして、けれどもそれは遠くで僕の名を呼ぶ声だった。

 

真理と染谷は戻ってきていた。

染谷が僕を見た。

「私は大丈夫。ごめんね。心配かけて。でも、もう大丈夫。だから私、さっきの、全然恥ずかしくないよ」

改めて僕は染谷に惚れた。女の子という意味じゃない。仲間として、友達として。泣きたいぐらい嬉しかった。本当に目頭が熱くなって、「おう、がんばろうぜ。染谷さん、偉いぞ」と答えて、施設を見るふりをして空を仰いだ。

 

 

恐る恐る館内に入ると、そこはだだっ広いロビーで、すごく豪華で、寒々としていて、誰もいなかった。正面に銅像が立っていた。『雛乃沢ダイビングスクール創立者・雛乃沢天命』と刻まれていた。

「こんにちは」染谷がロビーの真ん中でそう言った。けれどその声は、広いホールではいかにも頼りなく、エコーを伴いながら瞬く間に霧散した。

それでも、「誰か、誰か、いませんか」と染谷はもう一度、力を込めて、言った。

ドアが突然開いて、真っ黒なジャージを着た、まるでハルクホーガンみたいにガッシリした体躯の男が出てきた。

「面会に来ました」染谷が告げた。

「ダメダメ、面会は禁止だよ。きまりなんだから」

「でも会いたいんです。どうしても会いたいんです。お願いします」

「だから、ダメだって、帰りな」

「お願いします。蕪谷さんに、蕪谷樹一郎さんにどうしても会いたいんです」

「かぶらたに?」

ハルクホーガンは一瞬考え込み、何か思い至った表情で、はん、と顎をしゃくった。

「あんた、名前は?」

「染谷、染谷美保といいます」

「もう一度確認する。あんたは染谷美保、さんで、T二十八号、いや、蕪谷樹一郎に面会に来たというわけだ」染谷がうなずいた。

「ところで、あんた、校長の、染谷雄三校長のお嬢さん?」染谷がもう一度うなずいた。

ハルクホーガンは染谷美保を値踏みするように見ると、「ついて来て」と言って僕達を建物の内部に招き入れた。

狭くて暗い、来訪者を迷わせるだけの意図で設計されたような廊下を、僕達は不必要に何度も曲がり、エレベータに乗り、最上階の四階で降りた。

校長室というプレートのかかったドアを、ハルクホーガンがノックする。中から、どうぞ、という男の声がする。

ドアが開く。部屋に足を踏み入れる。

あまりの眩しさに僕は思わず目を閉じた。

圧倒的な光だった。

ようやく目を開ける。二十畳はあろうかと思われる広大な部屋だった。一面ガラス貼りになっていて、まばゆい大海原が広がっていた。反対側は真っ白な壁。ラフ板のように窓から入り込むすべての光を部屋中に反射させている。

圧倒的で、圧政的な光。

それらの光すべてを従えて、デスクに座る男のシルエットがあった。

男が立ち上がる。銀髪を七三分けにして白いポロシャツを着ていてベージュのスラックスを履いていて、背筋がピンと伸びていて、五十歳ぐらいだろうか、整った目鼻立ち、肌は健康的に日焼けしている。

「美保、よく来たね」男はそう言いながら染谷美保に近づき軽く抱擁した。染谷は棒立ちのまま抱擁を受けて、だがすぐさま男の腕から体を抜くと、真理の後ろに隠れた。

「蕪谷さんに会わせて」

染谷美保は、あらん限りの、憎しみに満ちた目で男を睨みつけている。闘っている、そう思った。改めて感じる。染谷美保は人形じゃなかった。天使でもなかった。人間だった。当たり前だった。僕達男子が勝手に彼女を人形にしていただけで、染谷美保自身は、人を憎悪することもある、嫌悪することもある、激しい感情を噴出させることもある、落ち込むこともある、精神が不安定になることもある、恋することもある、当たり前のように、ただの普通の女の子だった。

男は、ふう、と溜め息をつくと、蕪谷君が帰ってきたらここに、と、直立不動のハルクホーガンに指示した。

 

「美保がお世話になっています。美保の父です」

応接ソファで相対した男は、僕達一人一人に名刺を手渡す。そこには『宗教法人こころの会 雛乃沢ダイビングスクール校長 染谷雄三』と記されている。

「どうです? よいところでしょう」染谷雄三は眼下の海に視線を移す。

「心を癒やしながら自分を見つめ直すには、とても良い環境です」

それでも硬い表情のまま、うなずきもしない僕達をほぐすように染谷雄三は満面の笑みを浮かべた。

「蕪谷君は元気にやっていますよ」

僕達は押し黙ったままだ。染谷美保は、顔さえも背けている。

雄三と話すべきことは、特になかった。ここが洗脳施設でも宗教施設でも、そんなことは別にどうだっていいことだった。蕪谷に会って、彼を連れて帰ればそれでいい。蕪谷が変わっていなければそれでいい。当然、蕪谷はここから出たがっているはずだ。こんなところ、あの蕪谷が我慢できるわけがない。実際に来て、それはすぐわかった。ここは蕪谷から一番遠い場所だった。

問題は、蕪谷が洗脳されていないか、その一点だけだった。

もし洗脳されていたら。もし蕪谷が蕪谷じゃなくなっていたら。

そのことを考えると、心臓がぎゅっと縮まって、冷房が効いているにも関わらず、汗が滲んでくる。怖かった。それだけがすごく怖かった。

雄三は相変わらず、優雅な笑みを浮かべながら、僕達を穏やかに見つめている。染谷は顔を背けて身体全体で父親を拒否している。真理は下を向いたまま、まったく動かない。

僕は場の重さに耐えきれなくなり、とりあえず思いついた質問を口にした。

「ここは宗教の場所なんですか?」

雄三はほっと息をつくと、僕に笑顔を向けた。

「いえ、ここで宗教活動をしているというわけではありません。母体は確かに宗教法人『こころの会』ですが、ここは純粋に、純粋な教育施設です」

「でも宗教もやっているんでしょ。洗脳とか恐ろしい拷問とか。やるんでしょ。ロバートプラントとか、Tレクスタシーとか、恐ろしい電気手術とか、そんなことを蕪谷に、蕪谷には…」

染谷雄三は笑みを絶やさぬまま、僕の言葉を途中で遮る。

「ああ、記事をお読みになったのですね。あれは酷かったなあ。あまりに酷いので現在告訴中なのです」染谷雄三はちょっと顔をしかめると、でもすぐにまた笑顔を取り戻して、言った。

「安心してください。ここはとても健全な教育施設です。蕪谷君に会えばわかります。彼はここでの生活をとても楽しんでいます。正直、彼も心の奥底に深い傷を持っていました。でもここに来て、それは一つまた一つと治癒しています。彼は立ち直りつつあります。彼にとってここは必要な場所だったのです。蕪谷君だけではありません。ここにやってくる子供達の傷ついた心を私どもは、ここのスタッフは、本当に親身になって治しています」

その時だった。突然、染谷が叫んだ。

「嘘はもうたくさんだよ!」

僕達は一斉に染谷を見た。

「もし蕪谷さんがお兄ちゃんのように死んだら、死ななくても昔の蕪谷さんと違っていたら、洗脳されていたら、私は、パパを、絶対に、許さない」

染谷の顔は青ざめ、だが瞳には今まで見たことのない強い力があった。

雄三は大仰に溜め息をついた。「美保、おまえは誤解している。何度言えばわかる? お兄さんは事故だったんだ。悲しいけれどそうだった。ダイビングというスポーツは本来安全なんだ。でもごく稀にそういうことが起こる。山登りでもボクシングでも野球でさえ、スポーツに事故は付き物なのだよ。お兄さんは確かに可哀想なことをした。でも事故だったんだ。事故だったんだよ」

「事故じゃない。ここに殺された! お兄ちゃんは抵抗してたじゃない。施設には入りたくないって。でもパパは入れた。お兄ちゃんは死んだ。ママはおかしくなった。自殺した。お兄ちゃんもママもここに殺された。パパ。何でここをそんなに庇うの。パパも洗脳されてる。お兄ちゃんもママも辛かった。私だって、私だって」

そこでついに染谷は息がつけなくなった。口を開け、苦しそうに顔を歪めている。真理がそんな染谷を抱きしめた。

「いいかい? 美保、落ち着くんだ」染谷雄三は、眉間に皺を寄せて身を乗り出した。真理が染谷に代わって口を開いた。

「私には何が本当のことなのか、それはわかりません。ここが健全なのか、洗脳施設なのか。美保のお兄さんのことも。でも何故、ばかりが膨らみます。おじさん、ここで子供の心を治すお仕事をなさっているのなら、どうして美保を棄てたの? 一人きりになってしまった自分の子を、何故、おじさんは救ってあげなかったの? 美保は小学生だった。誰一人知っている者のいない田舎にやってきて、一生懸命生きてきた。美保はすごく傷ついていた。それでも一生懸命生きてきた。どうしてそんな美保の傍にいてあげなかったの? ここにやってくる子供達の心の傷を治してる? じゃあ、どうして自分の子供の心の傷を真っ先に治してあげなかったの? おじさんは本当に美保の父親なの? 私にはわからない。全然わからない。おじさんのやっていること。おじさんは、あなたは一体、誰? 誰なのですか?」

雄三の瞳にそれまでと全然違う感情が現れたように僕には見えた。取り繕いでもない。怒りでもない。戸惑いでもない。強いて言えば哀しみのような、そんな感情が。

「私は、私は勿論、美保の父親、です」

そんなことはわかってる。僕も心の中で叫んでいた。だからこそ染谷美保の傍にいてやるべきではなかったのか。真理の言うとおりだった。小学五年生から染谷はたった一人で生きてきたのだ。兄を失い、母親の自殺を見てしまい、声さえも失った染谷美保。誰一人友達のいない、年下のクラスに編入し、これまでずっと感情を押し殺してきた染谷美保。深い悲しみ、深い絶望、深い空虚。そのすべてを控えめな笑みの奥に押し込めていた染谷美保。

真理の言うとおりだった。何故、父親として傍にいてあげなかったのか。何故こんな立派な校長室にいるのか? 何故? どうして?

「私だって悩みに悩んだのです」染谷雄三が言った。「私だって、美保を手元に置きたかった。だから何度も美保を誘った。ここにおいで、と。そうだな、美保。でもおまえは最後まで首を縦に振らなかった。苦渋の決断だったんだ。あなた達にはわからないと思うが。けっして美保を見捨てたわけではない」

「じゃあ、美保が悪いっていうのですか」真理が気色ばんで言った。

「いや、誰が悪い、ということではありません。そうではなく、これは仕方のないことだった、そういうことです」

「わかりません。全然わかりません。だからおじさんが美保についていてあげればよかった、それだけのことじゃないですか」

雄三は僕達を見つめると、ふう、と何度目かの溜め息をついて、静かに言った。「あなた方に私の気持ちはわからない。美保にもわかってもらえなかった。私はここに来なければならなかった。この話はどこまでも平行線だと思う。君達にはわからないことが、たくさんあるのです。ただ」

「ただ?」

 

その時だった。

突然ドアが開いた。

僕達は一斉に振り返った。

染谷が立ち上がった。真理が立ち上がった。僕も立ち上がった。

「失礼します! T二十八号、入ります!」

蕪谷だった。蕪谷樹一郎が立っていた。会いたくて会いたくてたまらなかった蕪谷樹一郎がそこにいた。

目を疑った。

そこにいた少年は明らかに蕪谷で、でもまったく蕪谷ではなかった。

僧のようにきれいに剃られた坊主頭、紺色のジャージを着て、そのジャージの胸元には大きな名札が縫い付けてあって、T二十八号と記されていて、そんな少年が直立不動の姿勢でいた。だがそんな外見上のことじゃない。目だった。そこに立っていた少年の目は、かつての、僕達が知っているかつての蕪谷の、不穏で、鋭く、何より強い意志と脆いほどの儚さが共生する、あのオーラに満ちた目ではなかった。

虚ろで、力の感じられない、ピンポン玉のようにつるんとした空っぽの目だった。

「蕪谷さん!」

染谷美保が蕪谷に駆け寄り、そのまま、ぶつかるように抱きついた。それでも蕪谷は直立不動のまま、自分に抱きついてきて泣きじゃくっている女の子を、ただ不思議そうに見つめている。

「わかる? 私達のこと? わかる? 蕪谷君。わかるよね!」真理も駆け寄ると蕪谷の手を取った。

「よお、蕪谷、わかるよな。俺のこと。わかるだろ! なあ、蕪谷よお!」僕も駆け寄ると蕪谷の肩を揺さぶった。

それでも蕪谷はただ不思議そうに僕達を見つめるだけ。

「ああ、君達、南中学の…」

「そうだよ。シンプルドリームでしょ。やるんでしょ。学校祭に。一週間後だよ。『ダウンタウン』やるんだよね。君に会いにきたんだよ! 心配だった。すごく心配だった。私達」真理が言った。

「ああ、わかるよ。岸田君、坂下さん、染谷さん」それでも蕪谷はまだ不思議そうに僕達を見つめている。

「君に会いたかった。すごく会いたかった。ずっと会いたかった。君の家にも行った。フサさんにも会った。『希望回復委員会』にも行った。サイヤさんにも高木さんにも静和さんにも会った。君とミチさんの映画も観たよ。ねえ、蕪谷君、君は、君は、本当に大変だったんだね。辛かったね。でもやるんだよね。心をひとつにして『シンプルドリーム』で、ヤマさんもダースコさんも待ってるんだよ。ねえ、蕪谷君!」真理が叫ぶ。「よお、蕪谷。おまえ、大丈夫か! おい! わかるか! おまえ、洗脳されてるだろ! なあ、そうだろ! よお、蕪谷よお!」僕も叫ぶ。染谷は蕪谷に抱きついたまま、ただ泣きじゃくっている。真理が蕪谷の手を握り、「ねえ、蕪谷君、写真の場所、旅人ダムの底だったんでしょ。蕪谷君はそう確信したんでしょ。だから旅人町にきたんだよね」と訴える。それでも蕪谷はただぼんやり立ち尽くしている。

僕は泣きそうになった。こいつ、ほんとに蕪谷なのか? あの憎たらしい、でも愛すべき蕪谷樹一郎なのか? 俺達の音楽的支柱、ドラマー&バンドリーダー、蕪谷樹一郎なのか?

 

蕪谷樹一郎が雄三の隣に座っている。

背筋をピンと伸ばし、にこにこしながら僕達を見つめている。それでも瞳は真っ暗なほどの空洞のままだ。そんな目で見つめないでくれ。僕は心の中で叫んだ。

「突然の来訪で蕪谷君も驚いているんだろう。そうだよね。蕪谷君」蕪谷がこっくりうなずいた。

僕も真理も染谷も無言だった。目の前の蕪谷を見れば見るほど、いいようのない悲しみがこみ上げてきた。憎たらしいほど傲慢だったからこそ輝いていたのに。いつも何かに挑んでいる目付きだったからこそ大好きだったのに。紺色のダサいジャージを着て、しかもT二十八号だなんてわけ分からないダサい名札をつけて、栗色のさらさらの長髪じゃなくて坊さんのような丸坊主で。でも、何度もいうが外見じゃない。彼の瞳から透けて見える内面の変化に、僕は、僕達はものすごいショックを受けたのだ。蕪谷の瞳から伝わってくる形容しがたい異様さに。それが嫌だった。すごく嫌だった。

「蕪谷君、ここでの生活はどうですか?」染谷雄三が愛おしそうに蕪谷を見て、訊く。

「はい。とても満足しています」

「どう満足しているのですか?」

「今まで僕は間違っていた、そのことに気づきました。そのことに気づいたら、これまでの苦しみがすーっと無くなってしまいました」

「何が一番楽しい?」

「はい。やはりダイビングです。海に潜ると、自分がもっと自分になる感じがします。いのちに抱かれている安心感に満たされます」

ほら、といわんばかりの顔で、雄三が僕達を、特に美保を見た。

「いのちに抱かれている?」雄三が先を促した。

「はい。そうです。それはつまり…」

そんな蕪谷と染谷雄三の一問一答を僕はまるで聞いていなかった。意味をもたない音が耳を素通りしていくだけだった。雄三の隣で、にこにこ笑って、でも目は虚ろなままの蕪谷に対する複雑な感情が、行き場をなくして体の中をぐるぐる回っていた。

「で、君は、蕪谷君はどうしたいですか?」

「どうしたらいいでしょうか? 校長先生」

「ここにいる美保は私の娘です。娘の立っての願いですから、本来なら外出許可は与えないのですが、特別に、その、秋の学校祭の日だけでも。あなたはその学校祭に参加したいですか? そのバンドの演奏に」

「校長先生が、その方がよろしいと仰るなら」蕪谷がにこやかに答えた。

堪えきれず僕は叫んだ。「おい、おまえ、どうやって洗脳された? 相当酷いことされたろ。なあ、言ってみ。俺達親友だろ。なあ。蕪谷よお!」

「洗脳?」蕪谷は不思議そうに僕を見つめている。「ここは楽しいよ。少なくとも学校よりはずっと楽しいよ」深い絶望が心臓をぎゅっと縮ませる。

「なあ、とにかくおまえ、ここ、出よう。俺達と一緒に帰ろう。な。蕪谷」僕は思いきり蕪谷の腕を引っ張った。蕪谷はびくともしなかった。僕の手を払うこともなく、けれど根が張ったように動かなかった。深い絶望が心臓をさらに、ぎゅっと縮ませる。「な、帰ろう。俺達の町によ。おまえの町によ。旅人町によ。ミチさんの故郷だったんだろ。すごいな。おまえ。よく捜し出した。今はダムの底だけどミチさんの故郷に決まっている。おまえ、すごいじゃねえか。勘がいいんだな。勘のいいやつは大成するんだぜ。俺んちの家訓にもあるんだ。なあ、蕪谷。帰ろうぜ。蕪谷よお」涙が溢れそうだった。声が裏返っている。それでも僕は喋り続けた。「ほんでまたバンドの練習しようぜ。俺達もけっこううまくなったぜ。おまえに笑われないように一生懸命練習したんだ。なあ、蕪谷よお!」蕪谷が優しく微笑んでいる。言葉が出ない。これ以上、蕪谷にかける言葉が見つからない。心臓が激しく連打している。蕪谷は優しく優しく微笑んでいる。

「蕪谷!」僕は心の奥底から叫んだ。

「蕪谷!」もう一度叫んだ。

けれど蕪谷は、そんな僕を不思議そうに、ただ見つめるだけ。

「帰るんだよ!」力の限り叫んだ。力の限り蕪谷の腕を引っ張った。

「蕪谷! おまえは、今から帰るんだよ! 俺達と一緒に!」

蕪谷はまだ微笑んでいる。微笑んだまま柔らかくこう言った。

「どうして?」

掴んでいた手を離した。ドアの方へ歩き出した。心臓が停まりそうだった。よお、おまえ。どうしたんだ。おまえ。いいよ、もう。俺は帰る。蕪谷。目を覚ませ。なあ、おまえ、目を覚ませよ。後ろで染谷や真理が立ち上がる気配がした。真理が何かを叫んでいた。染谷が何かを叫んでいた。泣き声が聞こえた。悲鳴のような泣き声が。でも僕は見なかった。足も止めなかった。視界が滲んで前がよく見えなかった。心臓が停まりそうなぐらい高鳴っていた。なあ、蕪谷よ。おまえのこと助けてやりたいよ。助けてやりたい。救ってやりたい。おまえ、それ演技だよな。そう言ってくれよ。蕪谷。おまえ、演技してるんだよな。

 

校長室を出るとハルクホーガンが立っていた。

「お帰りですか」

僕の返事を待つまでもなく彼は先に立って歩き出した。彼の後を夢遊病者のようについて行き、エレベータに乗り一階で降り、迷わせるだけが目的のような不必要に曲がりくねった廊下を歩き、ロビーに出て、施設の外に出た。

「では、ごきげんよう」ハルクホーガンが僕の背に無表情な言葉を投げつける。

機嫌がいいはずがなかった。怒り。絶望。やるせなさ。ふがいなさ。でもそんな感情はまだ救いがある。空っぽだった。ただ、体の真ん中が空っぽだった。

 

外は明るかった。少し、むっ、とした。西に傾きつつある太陽はそれでもまだ力を持っていて、あらゆるものに熱を供給していた。秋とは思えなかった。だだっ広い駐車場に陽炎が揺れていた。陽炎と陽炎の合間に黄色のフォルクスワーゲンがぽつんと佇んでいた。無力だ。そう思った。T二十八号だって? 冗談じゃない。鉄人二十八号の顔にはあんなふうに偽物の笑みなんかないんだ。無表情で世界を救うんだ。絶対大人なんかになりたくない、そう思った。大人になったっていいことは一つもない。早く大人になりたかった。大人になって万能の力を蓄えて、ヘンな大人をやってつけたい、そう思った。

蕪谷。何もしてやれなかった。抱きしめることもできなかった。助けることもできなかった。ごめんな。蕪谷。ごめんな。黄色のワーゲンがゆがんでいた。陽炎のためじゃなかった。外はまだ明るかった。少し、むっ、とした。西に傾きつつある太陽はそれでもまだ力を持っていた。空っぽな駐車場。黄色のフォルクスワーゲン。空っぽな心。ゆがんだ景色。ゆがんだ太陽。溢れる涙。蕪谷樹一郎。つむじ風のように現れ、つむじ風のように去っていった一人の美少年。秋。房総半島の先っぽ。世界の終わりのような浜辺に咲く浜昼顔。神々しい孤独。誰もいない駐車場。誰もいない海。途方に暮れ、ただ立ち尽くしていた一九七五年。概念は死につつあり、偽物の刹那が空を覆い始めていて、バブルはいまだ遠く、ジョン・レノンは生きていた一九七五年。

 

僕は、あるいは僕達は、そのとき、たったの中学三年生だった。

 

 

chapter.14

「僕たちはみんな、哀しき70's kids」 とりあえず思い出話はこれで終わりだ。だが、往々にして、こういう話には後日談がある。 [sitecard subtitle=chapter.[…]

 

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