WEB/STORY「哀しき70’s Kids」ch.10

「夕暮れの河原、僕と真理と、蕪谷だけの、川の音」

二学期になった。

朗報があった。シンプルドリームの学校祭出演に正式許可が下りたのである。これはもう山田正義、坂下真理、染谷美保、という優等生トリオの信頼の賜以外の何ものでもなかった。だから練習にも自然と熱が入った。週一回、日曜の午後、僕達はヤマさんちの納屋で練習した。ドラムはいなかったが、それでも僕達は真剣に練習した。これなら蕪谷に聞かせても文句は言われないだろうといえるレベルになるまで。

 

WEB/STORY「哀しき70’s Kids」ch.10

chapter.9

WEB/STORY「哀しき70's Kids」ch.9  それから僕達は何度か蕪谷の蔵で練習をした。練習するたびにうまくなる手応えを誰もが感じていた。心をひとつにする喜びも感じていた。[…]

 

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ヤマさんや坂下真理達生徒会役員は多忙を極めていた。テーマ作りから看板作りからポスター作りから彼等は精力的に学校祭の運営準備に当たっていた。染谷もそうだった。彼女は当然のごとく学校祭運営委員に選ばれていた。

ダースコもダースコなりに忙しかった。彼は眉を落としたまま登校してきて例の生徒指導担当吉田に生徒指導室に呼び出されていた。けれどダースコも強気である。修学旅行の件をバラすぞ、と吉田を脅したかどうかは定かではないが彼はあいかわらず眉なしで、放課後は街道筋で三谷の大判焼き売りを手伝い、土曜日には三谷のバイクの後ろに乗り、いそいそと暴走族集会へと出かけていくのであった。

唯一、忙しくないのは僕だった。秋になると三年生は部活動を引退する。いよいよ受験モードである。が、しかし一向に勉強には気持ちが向かない。だから僕は、ヤマさんや真理や染谷が仕事をしている生徒会室で彼らの手伝いをしたり、早く帰って部屋に閉じこもりギターを弾いたりしていた。

蕪谷が残していったギターは、僕の一番の宝物になっていた。僕はヒマに任せて、『ダウンタウン』だけでなく、いろいろな曲のコピーした。ビートルズ『ゲットバック』、『オール・マイ・ラヴィング』、『アクロス・ザ・ユニヴァース』。ディープパープルにもレッドツェッペリンにもエリック・クラプトンにも挑戦した。『レイラ』にも『スモーク・オン・ザ・ウォーター』にも『胸いっぱいの愛』にも。雑誌や教則本でコードやストロークを一つ一つ覚えていった。リフやブルーノートスケールやチョーキングや、それが何たるものか、ということも少しずつ覚えていった。

ギターに飽きるとぼんやりする。するといつも頭に浮かぶのは蕪谷と一緒に行ったダムの風景だった。

夏の真っ盛り、Tシャツを汗でびしょびしょにしながら峠を自転車で登りきり、突然目の前に現れたダム。水の底を哀しいぐらい真剣な表情で見つめていた蕪谷。その風景を僕は、飽きることなく、まるで夢を食べるバクのように何度も思い出すのだった。

そんなふうに日々が過ぎ去っていくちょっとした隙間に僕と真理は、蕪谷が好きだったあの河原で一緒に過ごした。石に腰を下ろして川を眺めながらとりとめのない話をする。その間、ずっと手を繋いでいる。夕日が対岸の崖に隠れ、一気に空気がひんやりとし始め、川の鳴り方が秘めやかに聞こえるようになると腰を上げる。乗ってきた自転車を押しながら川べりのじゃり道を並んで歩く。真理の家の前までくると、どちらともなくもう一度手を握り合い、さよならをする。それが僕達のつきあいのすべてだった。

その日も夕暮れが空気の粒子を一つ、また一つオレンジ色に染めあげていた。僕と真理はいつもの大きな石に腰掛け、手を繋いでいた。

真理の手は、華奢で温かく、少しひんやりしていた。

「もうすぐだね、学校祭」真理が言った。

「成功するかな」いつも冷静で理知的な真理にしては珍しく頼りなげな声に、だから僕はちょっと強い口調で、「成功するさ、絶対に」と答えた。

「とにかく急がなくちゃね」

「えっ?」

「蕪谷君のこと」

学校が始まるとなかなか時間が取れないのが中学生である。染谷の涙の日以来、僕達は、とにかく行こうぜ、ライブハウスと蕪谷のいる施設へ、と言いながら、その機会を持てずにいた。

写真の件もあった。いまだ決定的な情報を得られないままだった。

「でね。学校祭の準備もひと段落ついたし、来週の日曜日、東京へ行こう、って美保と決めたの」真理が柔らかい声で、けれどもけっこう衝撃的なことを口にした。

「蕪谷君の通っていたお店、『希望回復委員会』に行ってこようかと思っている。ごめん。男子に相談しないで決めちゃって」真理が僕の顔色を伺った。

「いや、それはいいんだけど」

「でも、岸田君にだけは行ってもらいたいの」

「えっ?」

「実は美保も承諾済みなんだ。岸田君を誘うこと。もちろん、ヤマさんにもダースコさんにも行ってもらいたいのはやまやまなんだけど。ヤマさん達も行く気まんまんでしょ。だからよけい悪いんだけど、でも今回は三人で行きたいの、というか二人で」

「二人?」

「うん。美保は前日の土曜から東京行くんだって。親戚の家に泊まらせてもらって、もう一度蕪谷君の家に行ってフサさんに話を伺うんだって。だから日曜日の朝は私と岸田君、二人」

そういうことか。僕はうなずいた。後でヤマさんやダースコには文句を言われるだろうか。たぶん言われるだろう。でもそれはそれ、だ。真理は僕と二人で行きたいんだ。僕も同じだった。

それからしばらく黙って川を見つめた。今日も川は鳴っていた。あの時と同じだった。蕪谷と最初に言葉を交わした日。考えてみればつい三ヶ月前のことだった。でももうずいぶん昔のように思える。あの頃、僕は、僕達はただのアホな中学生だった。あれから蕪谷と仲良くなりバンドを結成し、一緒に頑張ろうと誓いあい、でもその蕪谷がいなくなって、慌て、失望し、けれどどうにか彼の居場所を探り出し、ようやく希望が見えてきて、そんなことをしているうちに僕は、僕達は少し大人になった。

不思議だった。たった三ヶ月なのに、みんな大人になった。中学生の三ヶ月は、大人の何年間にも匹敵するのかもしれない。いや。何十年間かもしれない。

ダースコは急激に不良化し、あまりバカをやらなくなった。ヤマさんはもともと老けキャラだったけれど、それでもますます貫禄がついてきた。染谷は大人しいだけの美少女ではなく愛に悩む美少女になり、僕と真理は手を繋ぐようになった。そのすべてが不思議だった。

「学校祭まであと二週間だな」僕は言った。

「そうだね」真理が答えた。

「バンド、中学、最大の思い出になるよな」

「ううん」

「えっ?」

「人生、最大の思い出」

「そっか」

「うん」

「でも蕪谷が戻ってこなくちゃ」

「そうよ、彼が戻ってきて初めて私達はひとつになるんだから」

「戻ってくるかな」

「戻ってくるよ」

「そうだよな。戻ってくる」

「とにかく早く蕪谷君に会いたい」

僕はうなずいた。「蕪谷が今何に困って、どんなことを考えているか知りたいし、助けられることがあれば助けてやりたい」

「うん」

「蕪谷の辛さは俺達の辛さ、だよな」

「そう。だって心はひとつなんだよ。私達」

「ところで、雛乃沢ダイビングスクールっていったいどんなところなんだ?」

真理が言った。

「ひどすぎるところ」

「えっ?」

真理は突然立ち上がってスカートをパンってすると、「ようやくデートできるね」とニコリとした。

 

「僕たちはトロッコに乗ったんだ」

 

 

 

僕と真理は今度こそ二人で東京行きの電車に揺られていた。

僕達は向かい合って座り、柔らかな陽光に照らされている車窓の風景を眺めながら、さまざまな話をした。学校の話をしたり、音楽の話をしたり、深夜放送の話をしたり、テレビの話をしたり。

「岸田君って野球中継、好きだよね」

「おうよ、だいたい男でプロ野球とプロレス見ないやつの気が知れないな」

「私のお父さんはプロ野球もプロレスも見ないよ」

「へえ」

「私んちはずっとNHKがかかってる。あ、唯一クイズ・グランプリとスター千一夜は見るけど」

「へえ」

「ほんとはアニメも見たいの。でも見せてくれない」

「まあ、なんとなくわかる。真理んちは、そうかも」

「岸田君はマンガ、好き?」

「もちろん」

「たとえば?」

「やっぱ、俺は手塚治虫だな。『火の鳥』に『バンパイヤ』最高だな」

「私は『ベルベラ』も好きだし、あと、『ガラスの城』って知ってる? わたなべまさこの」

こんなふうに話は脈絡なく子どものおもちゃ箱のようになっていくのだが、でも僕は真理と一緒にいるというその行為自体が幸せだったから、会話の中身なんてほんとはどうでもよかった。そのうち会話はさらに拡散して、電車はさらに故郷から離れていった。

 

「私って冷めてみられがちなんだ。というか、いつも冷静、って思われてる。でもほんとは違うんだよ。私だっていろいろ考えるし、影響されるし。悩みもあるし、ふらふらになっちゃうことだってあるんだよ。ほんとは」

マンガの話がひと段落して、無言が少しばかり続いたあと、真理が突然つぶやいた。

意外だった。人並み以上の才能や容姿を持っていて、家もしっかりしていて、しかも彼氏はカッコいいこの俺様、そんな彼女に悩みがあるなんて考えたこともなかった。だから、素直に、「真理にも悩みなんてあるのか」と訊いてみた。

「あるよ。あるある。大あり」

「俺がモてすぎてヤキモチに忙しいとか?」

真理は大きく首を振ってはっきりとした声で答えた。

「それは、ない」

「じゃあ、何?」気分を少しばかり害しながらも、僕はまた訊いた。

真理は答えなかった。代わりに美保と蕪谷のことを話し出した。

「実は美保と蕪谷君は、ほんとは孤児の兄妹で、赤ちゃんの頃、蕪谷君だけお金持ちの蕪谷家にもらわれて、美保も普通の家庭にもらわれて、で、いろいろあって結局旅人町で再会した。どう? その推理」

僕は、うーん、とうなった。感心したからではない。真理にしては非論理的すぎる推理だったからだ。

「ないな。それはあり得ない」

それでも真理は「そうかなあ。ないかなあ、まあないよね。でも美保と蕪谷君て、何かそういう特別な運命を感じるんだ」とつぶやいている。

「染谷さんって家族のこと、話したりすることあるの?」

僕はこれまでなんとなくタブーだった質問を、これ幸いと真理にぶつけてみた。

「実はね」しばらく黙ってしまった真理がようやく口を開いた。「ほんとはね、誰にも言わないつもりだったんだけど、でも岸田君だけに言うね。ごめんね」最後の、ごめんね、は、どうやら染谷に対してのようだった。

「この前、美保、私の家に泊まったの。初めて私に家族のこと、これまでの人生を話してくれた」

僕は黙って話の続きを待った。

「美保はね、私のような、のほほんと育ってきた者に到底理解できない、心を切り刻まれるような経験をこれまでたくさんしてきたの。たぶん蕪谷君と同じぐらい。もしかしたらそれ以上に」真理の声はさっきまでとはまったく違うものだった。「だから蕪谷君を見た瞬間、仲間って思ったんだって。だから美保は蕪谷君を愛おしく思うようになった。同じ匂いだって。もちろん一方通行。蕪谷君の心は美保には向いていない。それは美保自身もわかっている。でもそれでいいんだって。美保にとって愛する存在がある、ってことが大切なんだって」染谷は大人だ、と思った。真理も。中学生のこの時期は女の子のほうが何億光年も大人なのだ、と僕はその時、はっきりと気がついた。

「美保にはね。お兄さんがいたの」

「お兄さん? でも」

「そう。今は美保ひとり。お兄さんは亡くなったの」

亡くなった?

「美保、本当によく耐えてきたな、って、私、美保のこれまでの人生を聞いた日、眠れなかった。その日以来、いろいろなことを考えてきた」

「…」

「美保のお父さんは横浜で事業をやっていたの。お金持ちだったみたい。美保には三歳の離れたお兄さんがいた。美保はそのお兄さんのこと、小学校まではすごく好きだった。かっこよくて頭がよくて優しくて。でもね、お兄さん、中学に入ると学校に行かなくなったの。すごい難関中学。受験してようやく入って。でもすぐに行かなくなっちゃった。家に籠もって暴れたり、お母さんのことを殴ったり、もう昔のお兄さんとはまったく違う人になっちゃったの。お父さんもお母さんも困ってしまって、お兄さんをある施設に入れた」

「もしかして?」

「そう。蕪谷君が今入っている施設」

そうだったのか。染谷は知っていたんだ。その施設のことを。しかもすごく身近な存在として。

「お父さんが施設の教育方針にすごく感銘して、お兄さんを無理矢理入れた」

真理が自分のデイバッグから雑誌を取り出した。

「この雑誌に詳しく書いてある。その施設のこと。美保から借りたんだけど」

月刊『新世界』一九七三年、七月号。

特集記事「恐るべき雛乃沢ダイビングスクールの全貌」と表紙に書いてある。

僕は読み始めた。戦慄した。

ここに書いてあることが事実なら、蕪谷のいるところは、『雛乃沢ダイビングスクール』とは、僕の想像をはるかに超えたところだった。

 

「恐るべき雛乃沢ダイビングスクールの全貌」

 

教育の荒廃が叫ばれて久しい今日、若者の厚生施設として三年前に開校した学校がある。「雛乃沢ダイビングスクール」がそれである。

雛乃沢ダイビングスクールは房総半島のはずれにある。広大な敷地のほとんどが原生林に覆われた海沿いにある。施設は驚くほど充実している。四階建ての本部。全寮制だが一人一人に冷暖房完備の部屋が与えられる。本部前は断崖絶壁。見渡す限りの大海原。寮生はそこで二年間、ダイビングを通して精神修養をする。

オレゴン州立大学教授で脳医学の世界的権威、アルフレッド・キンザイ博士の学説によれば、人間は海中で、陸上の数十倍ほどの精神安定脳内麻薬シニフィアンを分泌するそうだ。特に水深十m前後のところでその分泌が最大となる。この学説を拠り所に雛乃沢ダイビングスクールは、日本の黒幕の一人と目される雛乃沢天命の運営する宗教法人「こころの会」の教育施設として、一九七〇年に設立された。家庭内暴力、校内暴力、非行、不登校その他、反社会的行動を繰り返す若者を、ダイビングを通して精神を安定させ、肉体を鍛え、心身ともに健全な青少年として再び世に送り返す。優しく、社会にも家族にも貢献できる、勤労意欲に満ちた第一級の社会人として家族にお返しする。それがこのスクールのセールスポイントである。費用が恐ろしくかかるため、ここに入校する若者のほとんどが富裕層の師弟である。が、その莫大な費用にもかかわらず設立以来、入校者は増加の一途を辿っている。それだけ親が手を焼く若者が増えている、という背景もあるのだが、雛乃沢天命の趣旨に賛同する父兄が増えているのも入校者増加に拍車をかけている理由のひとつである。

もちろん設立趣旨のままの学校ならそれはそれで社会にとって有益かもしれない。ゲバルト学生の悲惨な結末を知った今となっては、これからの教育のあり方に一石を投じるこのような学校にも存在意義はあるだろう。だがスクールの実態は、そうした美辞麗句とは似ても似つかないものだった。

本誌がこのスクールに注目したきっかけは、入校者がすでに不慮の事故死を遂げている、という事実を掴んだからだった。学校は認めていないが、開校以来、少なくとも三名の生徒が亡くなり、数名が行方不明になっている。そこで本誌は総力をあげてこのスクールを取材した。政財界に多大な影響力をもつ雛乃沢天命の施設だけに取材は困難を極めたがそれでもこのスクールのおおよその概要がつかめた。それは想像以上に壮絶なものだった。

まずスクールに入校した者は一切外部との関係を切られる。肉親でさえ面会できない。電話も取り次いでもらえないし手紙も届かない。文字通り二年間、社会と隔絶した生活を送ることとなる。

朝は五時半起床である。寝坊した者はプロレスラーまがいの教官に叩き起こされ、海に臨む断崖に集められ、断崖からの飛び下りを強要される。もちろん夏も冬も。教官はこれを朝の洗面と呼んでいる。

続いて『セミナー』と呼ばれる洗脳教育が延々と施される。プラトンより始まる西洋哲学、孔子より始まる中国哲学、涅槃思想にチベット仏教に至るまで人類のありとあらゆる思索を徹底的に学習させられる。しかしその学習自体に、実は意味はない。毎日、四方を囲まれた二畳ほどの狭い空間に押し込められ、イヤホンを付けさせられ、監視されながら講義を受けること自体が目的なのだ。一日十時間も意味のない行為を強いて、批判精神や反抗精神を完璧に打ち砕くことこそが目的なのである。

とにかくトイレ以外、その二畳の教育部屋を出ることは許されない。巧妙な拷問ともいえる。もちろん最初は誰もが抵抗する。施設にやってくる若者はもともと反抗心溢れる者ばかりである。だが抵抗には恐ろしい罰が待っている。ある者は四日間眠らせてもらえなかった。ある者は木に縛られ置き去りにされた。ある者は砂浜に肩まで埋められ放置された。ある者は一日中羊を数えろと命令されたし、ある者は豆をひとつぶずつ皿から皿へ移しかえる作業を延々とやらされた。そうした拷問を繰り返すことで、血気盛んだった若者の反抗心を打ち砕いていくのだ。

特色のダイビングはどうだろう。確かにカリキュラムには組み込まれている。だが、実態はダイビングの名を借りたリンチ、といってもよいかと思う。教員は体罰を厭わない。否、体罰ではない。暴力だ。鉄拳制裁だ。そうした暴力がこの施設では横行している。

では、脱出は可能なのだろうか。

不可能ではないが、ほぼ無理だろう、というのが編集部の判断である。まず敷地が広大である。ほぼ原生林。あるいは断崖絶壁。その下は海。しかも全て雛乃沢天命の私有地である。噂では、足を麻痺させる地雷がいたるところに埋められており、有刺鉄線、電流線が張り巡らされているという。極めつけは、高さ七メートルの壁が敷地をぐるりと取り囲んでいる。屈強な私的警備員が敷地内を定期的に巡回している。まさに要塞といっていいだろう。

 

「信じられない」

僕はここまで読んで思わず声をあげてしまった。真理も眉間に皺を寄せている。

「確かにこんなところがこの平和な日本にあること自体信じられないよね。私も美保にこれを見せられたときは、そう思った。でも美保の話によると、これはほぼ事実なんだって。だから怖いの。すごく怖いの」

逸る気持ちを抑えつつ、続きを読んだ。そこにはさらに信じ難いことが記されていた。

 

だがこうした講義やダイビングは序の口である。その後、本格的な洗脳作業に入るのだ。ここでカリキュラムは第二段階となる。第一段階講義によって見定めた各人の反抗レベルごとに洗脳手段がとられるのだ。一番反抗程度の低い者にはソフトな催眠とサブリミナルによる洗脳を行う。中程度の者には薬物投与とインプラントによる洗脳を行う。インプラントとは脳に電極を埋め込み洗脳を行う技術のことだ。電磁波を使って行動や感情をコントロールするのだ。

最強の反抗心を持つ者には最強の洗脳手段がとられる。インプラント電磁波操作に加えバイオテレメトリ手法、薬物投与、さらには脳にレーザー光線を照射することによるロボトミー手術。簡単に言えば完全に去勢してしまうのだ。生理学的に。それが洗脳の最終段階である。こうなるともう生きる屍である。

「雛乃沢ダイビングスクール」は、表向きは教育施設である。が、本当の姿は、徹底した、手段を選ばない洗脳施設なのだ。

ここを卒業した若者はおしなべて、おとなしい。というより、私の印象では、魂が抜けているようにしか見えなかった。しかも卒業生はほぼ全員、宗教法人「こころの会」に入り、宗教活動に従事することとなる。

読者の皆さんはこのような施設がこの日本にあること自体、信じられないと思う。だがこれは事実である。教育の荒廃は深刻な社会問題となりつつあるが、それとこれは別の問題である。取材を通して、死者が出た、という噂を確認することは、残念ながら出来なかった。だが感触としては死者が出てもおかしくない、という印象を強くもった。

「雛乃沢ダイビングスクール」。

今度あなたがこの名前を聞く時は、ニュースの事件報道で、かもしれない。

 

電車が停まり、ドアが開き、乗客が乗り込んできた。気がつくと大半の席は埋まっていた。さっきまでの浮かれた気分は嘘のように消えていた。

「ほんとは早く岸田君に話したかった。でもできなかった。ずっとずっと悩んでいた。どうしたらいいかわからないで。あまりにも大きすぎて、どうしたらいいか、全然わからなかった。美保のことも。蕪谷君のことも…岸田君、美保のお兄さんは、この施設で死んだの」

「えっ?」

「施設の人やお父さんは訓練中の事故だっていうけど、美保やお母さんは殺されたって、そう思っていた」

「そんな」

「お兄さんの体にはたくさんの殴られた痕があった」

あまりの衝撃にしばらく言葉が出てこなかった。

「美保はこう言ってた。お兄さんが死んで、家族が家族じゃなくなったって、お母さんはノイローゼになってしまって、でもお父さんはそんなことがあってもなお、その施設を悪く言わないで、あれはお兄さんが悪かったからだ、って。自分達の育て方が悪かったって。仕方ないことだったって。でもお母さんはお兄さんのことをすごく愛していたから、だから当然夫婦の仲も悪くなって」真理の声が震えていた。真理は僕をまっすぐ見つめたまま、話を続けた。「お母さんはある日、自殺した。美保が第一発見者だった。学校から帰ってきたら、お母さんが布団の中で死んでいた」真理は何の感情も交えず言った。僕の頭の中で言葉が拡散を繰り返しなかなか着地しなかった。染谷美保の笑顔が脳裏をよぎった。天使のような笑顔だった。透明で柔らかで海のような笑顔だった。その笑顔の奥に、僕達が思いもつかない深い深い悲しみがあったのだ。絶望と言いかえてもいい、深い深い悲しみが。

僕と真理は無言のまま、ただ電車の揺れに身を任せていた。

真理がまたもや衝撃的なことを口にした。

「お父さんは事業を辞めて、今はその施設で働いている。美保のお父さん」

「えっ?」

「美保が言うには、お父さんは自分の選択が間違ってなかった、ってことを証明したいんだって。兄の死は、施設が悪いのではなくて、兄自体、兄をあのように育ててしまった自分の問題だって。教育の問題、現代という社会全体の問題なんだって。だから自分自身がその施設で働いて、第二第三の兄を出さないことが兄に対する最大の供養なんだって」

「わからない。俺にはわからない」僕は搾り出すように言った。真理も力なく首を振った。「私もわからない。美保もわからないって言ってた。お父さんの気持ち。でも事実はそう。『こころの会』にも入会したって。だから美保はお父さんについて行かず、田舎のおばあさんのところにやってきたの」真理は自分を納得させるようにうなずくと、「だから、美保は施設に行く、って決心したの。最初はすごく怖がっていた。でも、一刻も早く行かなくちゃって。そうしないと蕪谷君が壊れちゃう、って。死んじゃう、って」と言って、小さな声で、ごめんね、とつけ加えた。

「人の秘密を話すってすごく嫌だったから、黙っていたけど。岸田君には話したい。岸田君にだけは、秘密、作りたくない」

「うん。そうだよな。俺達の間で隠し事は、なしだ。俺も、真理には何でも話す」

真理は僕の言葉に大きくうなずいた。

「年上なの」真理が言った。

「えっ?」

「美保は私達より一歳年上。本当だったら高校一年生。先輩なの」

信じがたいことだった。だって。小学五年生の時に転校してきて彼女はまったく僕達の同級生だったじゃないか。

「お母さんが自殺して、美保、何も喋れなくなった。学校も行かなくなった。だから美保、一年間、病院に入っていた」

そうだったのか。彼女が転校してきた日のことを思い出していた。あまりの美少女さにまずみんなびっくりしたのだが、同時に、彼女はまるで天使のように透き通っていた。あの時点で、すでに彼女は多くの地獄を見てきていたのだ。

「秘密にしてね」真理が申し訳なさそうに言った。さっきの、ごめんね、は染谷に対しての、ごめんね、だったのだ。

「大丈夫。秘密にする。というか染谷さんがそのことを笑って話せるまで絶対誰にも言わない」

僕がそう言うと、真理はようやく顔を綻ばせて、小さい笑顔を浮かべた。

 

僕と真理は浅草で銀座線に乗り換え、外苑前で降りた。巨大な石造り建物の前を歩いた。「電電公社よ」真理が言った。「もう少し歩くと銀杏並木がある。そこで美保は待ってるはず」

紀文というお菓子屋さんとやぶそばというお蕎麦屋さんの前を通り過ぎると銀杏並木にぶつかった。そこは広場になっていて、染谷美保はその広場の片隅にある方形の石垣の上にちょこんと座っていた。だから僕と真理も石垣によじ登って染谷の横に座った。

目の前の通りをたくさんの車が往来していた。高いビルが林立していた。広場では半ズボンの男子小学生達がローラースケートで遊んでいた。

「ここは青山通り。こっちに見えるのが銀杏並木で、その奥が絵画館」

道の両側の銀杏が規則正しく遠近法を形作っていて、その奥に石造りの荘厳な建物があった。丸い屋根が印象的な建物だった。ローラースケートに興じている小学生達は広場をぐるぐる回りながら追いかけっこをしていた。十二チャンネルでやっているローラーゲームの真似だろう。そういえば先週のローラーゲーム、佐々木ヨーコが大活躍してロサンゼルスサンダーバードに勝利して、そりゃあ痛快だったのだが、ちらっと真理と染谷を見ると、何やら深刻そうに話し込んでいたので、この話題を出すのは止めることにした。

「ということで、岸田君、どうしよう。夜になっちゃう」突然真理が僕に話を振ってきた。

「えっ、えっ?」その時僕は、ビンゴ河野が恐ろしい勢いで敵を抜き去り勝利した瞬間を夢想していたので、思わず狼狽してしまった。

「あのさ、もしかしたらローラーゲームのことでも考えていたんじゃない?」真理の指摘は恐ろしく図星だった。

「あ、いや、そんな、まさか。この大切な時にそんな野蛮なことを、ビンゴ河野がカッコよかったなとか、佐々木ヨーコの長い髪って素敵だな、なんてことはこれっぽっちも、そんな」と僕が狼狽を重ねていると、真理が小さく溜め息をついて、「あのさ、全然聞いてなかったでしょ。美保ね、お店、探しあてたのよ。でもドアは閉まっていて、どうやら夜にならないと入れないお店らしいの」と言った。「まあ、考えてみればライブハウスなんて、夜しかやらないものね。考え浅かったね、朝早く来ても仕方なかったってことか」

確かにそうだった。お店というものはすべて午前中から開いていて、遅くても八時には閉まってしまう、との思い込みはいかにも田舎の中学生の発想である。

「あーあ」真理が下唇を噛んだ。「せっかく来たのにな」久しぶりに悔しそうな真理を見た。

「だから美保、今日の夜、お店に一人で行くって。こっちの親戚の家に今日も泊まって。だから明日、学校休むって」

昨日までの僕だったらけっこう驚いたかもしれない。が、今はもう驚かなかった。染谷のこれまでの人生のすさまじさに比べたら学校を一日や二日、休むことは、まったくたいしたことじゃない、と思った。彼女は都心のど真ん中で、いつものはにかんだ笑顔を浮かべて座っていた。そんな染谷がすごく愛おしかった。女の子としてではなかった。一人の人間として、大切な仲間として、僕は染谷がすごく愛おしかった。

「そっか、染谷さん、今日の夜、そのライブハウスに一人で行くんだ。心細いよね」

染谷は笑顔を残したまま、言った。「真理とか岸田さんがいてくれれば、心強いのですが。でも仕方ないです。明日は学校だし。私は大丈夫。とにかく今日の夜、一人で行ってきます」その声はすごく柔らかかったけれど、その奥に僕は初めて強さを感じた。彼女はずっと孤独を生きてきた。彼女の笑みが透明なのは、彼女がずっと孤独と向き合ってきたからだ、ということが今、まっすぐ理解できた。

「そういえば」僕はいつしか話していた。「うちのおふくろが言ってたけど、孤独の弧って、子供を失った親の心境で、独って親を失った子供の心境なんだって」染谷と真理が、同時に、少しばかり、こくっとうなずいたような気がした。

「あ、うろ覚えだから、もしかしたら反対かもしらないけど。とにかく蕪谷はこんな都会のど真ん中で孤独だったんだ。こんなに車が通っていて、お洒落な人がたくさん歩いていて、ネオンもたくさん点いていて、夜も昼間のように明るくてビルがいっぱいあってすっげえでかい家に住んでいても、蕪谷はすっげえ孤独だったんだ」

今度は真理も染谷もはっきりとうなずいた。

「でも、思うんだけど孤独って、すごく辛いし、寂しいし、できれば孤独になりたくないけど、でも孤独って人を大きくさせるよな。絶対にさせるよな。だから蕪谷はでかいんだよな。そうだよな」二人がまたこくっとうなずいた。本当は、染谷さんもだよ、と言いたかったけど、それは言葉にはしなかった。

「でも蕪谷は、俺達といた時は孤独じゃなかったよな。だって俺達と蕪谷は、心をひとつにする仲間だったから。孤独も、もしかしたら必要かもしらねえけど、仲間は絶対に必要だよな」僕は言葉が止まらなかった。「だから俺達は蕪谷と会わなくちゃならないだよな。このままじゃ絶対すまないよな。絶対に会うんだよな」僕はいつしか自分に語りかけていた。「南中始まって以来のライブを成功させるとか、そんなことじゃなくて、俺達は蕪谷に会わなくちゃならないんだよな。仲間として。友達として」

「私、会いたい」はっきり染谷が言った。いつもの遠慮がちな口調ではなかった。

「俺達と蕪谷は友達だよな」僕は続けた。「友達ってすごく大切だよな」ローラースケートの小学生はいつの間にかいなくなっていた。「だから蕪谷に会ったら、とにかく抱きしめてやろうぜ。ぎゅっと」言いながら自分の言葉に少なからずびっくりしていた。抱きしめる、なんて中学生としてちょっと言い過ぎかな、とも思った。でも、と心の中で反論した。中学生だからこそ、十五歳だからこそ、男とか女とか、そんなことは何も考えずに抱きしめることができる、って。染谷は十六歳だけど、蕪谷を深く愛している彼女だからこそ純粋にきれいに抱きしめることができるんだ、って。それは全然いやらしくないことだ、って僕は自分の言葉にお墨つきをあげた。

「岸田君っていいこと言う。尊敬しなおしちゃったな」真理がすごく嬉しそうに言った。

 

染谷はこの近くに住んでいるという親戚の家に帰っていった。

僕と真理は石垣に取り残された。真理はずっと黙って体育座りをしている。僕はなぜか疲れがどっと出て芝生に寝転んだ。すごくいいお天気だった。きれいな空だった。東京の空も捨てたもんじゃないな、とぽかぽか浮かぶ白い雲を眺めながら思った。

 

芝がこすれる音がして目を覚ますと真理が僕をじっと見ていた。どうやら雲を見ているうちに寝てしまったらしい。寝顔を見られたか? 急にすごく恥ずかしくなって、実際顔が赤くほてってくるのがわかった。

「俺、何分ぐらい寝てた?」

「十分ぐらいかな。もっと寝ててもいいよ」

そう言われても、ここは東京のど真ん中である。しかも初デートの真っ最中である。そんな状況で二時間も三時間も一人で昼寝してしまっては、これはもう最悪以外の何ものでもないのである。だから僕は慌てて「ごめん」と言って上体を起こした。

「ところで岸田君、何時まで帰ればいい?」真理が不安そうに訊いてきた。おふくろには、ヤマさんと東京に行ってくる、とだけ伝えて、詳しいことは何も言ってなかった。さすがに鈍感な僕の家族でもタイムリミットは、ぎりぎり夜の九時だろうか。すると遅くても七時の電車に乗らなくてはならない。七時か。たぶん店はまだ開いてないだろう。本当に迂闊だった。ちょっと思いを巡らせれば夜の店だということはすぐ気づくはずなのに。店に行くことができなければ、来た意味がなくなってしまう。どうしたらいいのだ?

「私も九時頃まで、と思ってたの。ピアノの先生のところに行く、って嘘言っちゃったから」

「おんなじだ」

「お店、やっぱり行けないね」

結局、染谷に任すしかなさそうだった。子供がこんなに窮屈だってことを、今日ほど痛感したことがなかった。僕達が大人だったら何時までだって東京に居られるのに。

「私達ってバカだね」真理がつぶやいた。「全然チカラない。ほんとバカだ。もっときちんと計画立ててくればよかった」

「どっちみち泊まらなくちゃその店は行けない」

「そうだね。結局ダメなんだよね。美保みたいにはできないものね」

暗い気持ちとは裏腹に、目の前をきれいな車がたくさん通り過ぎていく。歩道にもたくさんの人が行きかっている。まるでお祭りのようだった。

それでも僕の心は沈んだままだった。

不意に真理が立ち上がって石垣から飛び降りた。

「くよくよしてても仕方ないか。今日は記念すべき初デートでもあるんだから、楽しもうよ。ね、岸田君。まず何か食べて、それから映画、観に行こう」

時計を見ると午後一時を回っていた。そのことに気づくと無性に腹が減ってきた。

「おう。そうだな。何事もまずは腹八分目だよな」

あのさぁ、という顔で真理が僕を見る。

 

僕達は行きかう人の波に乗って、表通りを歩きだした。

「ところで真理、いくら持っている?」

店を探しながら、僕はちょっと心配になって訊いた。

「三千円ぐらい。岸田君は?」

「俺は…」自分の財布を覗くと、まったく頼りない額しか入っていない。デートっていうのはお金をそれなりに用意しておかなくてはカッコ悪いんだ、ということを僕は初めて知った。でも、それも後の祭り、というやつだ。

そうして僕達はまた通りを歩いた。少し歩くと蕎麦屋があった。

「ここは?」僕は訊いた。

ショーウインドーの中に和紙のメニューがあって、それを見るなり真理は、違うとこにしよ、といってさっさと歩き出してしまった。ただのもりそばが旅人町より確実に一.五倍は高い値段だった。

そんなふうに目につく食べ物屋をチェックしていったのだが、どうやら田舎の中学生を顧客としてまったく想定していない、キラキラした大人の店ばかり、ということがだんだんわかってきて、すると僕達の口数は少なくなり、いつしか店をチェックすることもなく、ただ黙々と歩くばかりになっていた。

突然、真理が立ち止まった。くるりと向きを変えると、満面の笑みを浮かべて、「やっぱり映画、先にしようよ」と言った。

「えっ?」

「ほら、映画のチケットとか、帰りの電車賃を考えると、あんまりご飯にお金かけられないでしょ。でも映画は絶対、観たいんだ。食事は映画館でポップコーン買って、しかもコーラつき。私はそれで十分だよ」

その頃には僕はお腹が空きすぎていたのだが、真理の言うとおりで、考えてみれば初デートにお金を十分持ってこなかった僕が悪いんだ、と思い至り、おお、それでいいぞ、真理がいいならそれでいいぞ、と、僕も満面の笑みを浮かべるのだった。

 

映画館を出ると夕暮れになっていた。

実は映画館に入る前までは相当躊躇していたのだ。躊躇した理由は『エマニエル婦人』だったからではない。『エクソシスト』だったからでもない。『小さな恋のメロディ』という映画だったからだ。話題にはなっていたし、主題歌は大ヒットしたから、知ってはいたが、そのあまりに男を拒絶した題名にまず躊躇したのである。しかも行列のほぼすべてが女の子、という事態も躊躇の大要因だった。

でも観てよかった。映画館を出る時にはそう確信していた。

舞台はイギリスのグラマースクール。十二歳の男の子と女の子が恋をして、最初は友達に冷やかされたり、家の人に反対されたりするのだが、墓場でデートしたり、学校をサボって海水浴に行ったりして、愛を確かめ合ううちに、結婚しようと決心して、ラストは花咲く五月の草原を、二人でトロッコを漕ぎながら地平線の彼方に去っていく。主人公の男の子にはやんちゃなガキ大将の親友がいて、そのガキ大将は主人公の男の子のことが大好きで、だから主人公の男の子が女の子に心を奪われていることが、最初は許せなくて男の子をいじめるのだが、最後は本当に献身的に二人の愛の成就を願って結婚式を挙げてやったりする。とにかく爆弾作りに精を出す男の子とか、ミック・ジャガーのポスターにキスする女の子とか、わからず屋の先生の頭を上履きでひっぱたいちゃう男の子とか、何ともいえずキャラが立っている子供達ばかりで、画面の隅々まで初夏の光が満ちていて、イギリスと日本、遠く離れているにも係わらず、なぜか僕達の日常ととても似ている、そんな映画だった。

「私、この映画観るの、五回目」真理が優しい声で言った。「観るたびに新しい発見と新しい感動がある。すごく好きなんだ。だから絶対、岸田君と一緒に見たかった」

「おう、すごくよかった」僕が素直に言うと、真理は、ニコッと笑った。

 

時計を見ると六時だった。

浅草に戻る地下鉄に乗っていた。

今日の朝は、店に乗り込んで蕪谷を助けるんだ、と意気込んでいたのに、それがずっと昔に思えた。

僕達は終点の浅草まで黙ったままだった。

たった一日真理と一緒にいただけなのに、すでに離れ難くなっていた。

このままずっと一緒にいたかった。

帰りの電車に乗り、見慣れた小さな駅で降り、さよならをすれば、今日は終わる。明日からまた、いつもの日常が始まる。

ただ、始まる。

僕達はプラットホームのベンチに座った。

それまでずっと黙っていた真理が、つぶやいた。

「あのトロッコ、どこに行ったんだろう」

映画のラストシーンのことだった。結婚式に乱入した先生を蹴散らして、二人はトロッコを漕ぎながら、去っていく。いつしか地平線と同化して映画は終わる。

「でも勇気あるね。だって結婚式挙げて、最後は二人でトロッコで逃げちゃうんだよ。十二歳だよ」

「おう、勇気あるな」

真理が挑むように僕を見た。

「私達もトロッコに乗っちゃうか」

「えっ?」

「ごめん。嘘」

電車がホームに滑り込んできた。

故郷行き最終列車。これに乗れば九時には見慣れた町に着く。僕と真理の初デートが終わる。

にわかにプラットホームがざわめき出した。

突然、真理が僕の手を握った。今までにないぐらいの強さで握った。

電車のドアが開き、乗客が降り、一斉に改札へと向かい始めた。清掃員が車内の掃除を始めた。待っていた客が乗車口に並びだした。清掃が終わり、アナウンスが乗車を促し、客が乗り込み始めた。慌ただしく行き来する足音。幼児を急かせる母親の声。発車五分前を伝える、独特の節を持つアナウンス。

プラットホームの喧噪がまた一段と激しくなった。アナウンスが発車一分前を告げた。けたたましいベルが鳴った。

自動ドアが閉まった。

 

電車が行ってしまっても、僕と真理はベンチに座ったままだった。

「怒られるよね」真理が小さく言った。

「学校休むことになるしな」僕もつぶやくように言った。

言葉にしてはっきりわかった。僕達は今、すごいことを始めているのだ。外泊して学校をサボろうとしているのだ。しかも真理と二人で。

真理も事の重大さは十分気づいているのだろう。青ざめた顔に無理矢理笑顔を作ろうとして、でもその作業はまったくうまくいかず泣き顔のようになってしまった。

「いいんだよね、これで。だって美保ひとりで行かせられないもの」真理は自分を納得させるようにつぶやくと、とにかく家に電話しよう、捜索願いなんか出されたらことだから、と僕に言い、公衆電話にそれぞれ向かった。

僕は自分の家の番号を回そうと思って、どうしても勇気が出ず結局電話したのはヤマさんちだった。

「マー、よく電話してくれた」ヤマさんにしては珍しく間延びしていない、しゃきっとした声が聞こえてきた。

えっ? 一体どういう意味だ、と思いながらも僕は早口で言った。

「なあ、ヤマさん」

「なんだ? マー」

「一生のお願いなんだけど。今日はヤマさんちに泊まっている、ってことにしてくれないか? それから明日、学校に行ったら岸田誠は四十五度の熱を出してゲロ吐いて下痢もひどくて、のたうちまわっていて、だから今日は休むそうです、って言ってくれないか。それからどうしてそんなお願いするか、ってことは今は聞かないでくれないか、頼む。一生のお願いだから」

受話器の向こうでヤマさんがすっと息を呑むのがわかった。黙り込んでいたのは、たぶん二、三秒だったろう。それでも僕には永遠のように思えた。

「わかった」ようやくヤマさんが言った。「任せろ、マー」

涙が出そうになった。が、続けてヤマさんは不思議なことを言い始めた。

「マーよ。もし何かあったらすぐに電話しろ。いいか。こっちは任せとけ。うまくやってやるから。でもいいか。その代わり、何かあったらすぐに電話しろ。俺は、今日は一晩中起きてるからな。それから坂下さんのこと、染谷さんのこと、頼んだからな。おまえ、今日はナイトになれ」ヤマさんはそう言って一方的に電話を切った。

ヤマさん、なにゆえ知っている? 恐るべし山田家の情報収集能力。

でもヤマさんの励ましですごく心が軽くなった。だから僕は思い切って自分の家に電話し、母親に、「なあ、母ちゃん。今日はヤマさんち泊まるから。一緒に受験勉強するから」と古典的親騙しの言い訳もすらすらと口をついて出た。すると母親も、疑うことなく、迷惑かけんじゃないよ、と言って向こうから電話を切ってしまった。

僕が公衆電話から離れると、同時に真理も受話器を置いてやってきた。笑みが浮かんでいる。「最初にピアノの先生に電話したの。そうしたら私の家に泊まりなさい、て。ついでに明日は一日私が受験勉強を教えるってことにしよう、って。だからそのとおりお母さんに電話したら、最初はなんだかんだ言ってたけど、私が強硬に言ったら一応納得してくれて。先生もお母さんに電話してくれるそうだから。まあ、帰ってからたぶん相当叱られると思うけど」聞けば、吉祥寺に住んでいるそのピアノの先生は、二十代のすごい美人なのだそうだ。

「実はね。その先生には岸田君や蕪谷君のこと、それから美保のことなんか話してたの。その人も彼氏のこととか話してくれて。ほんとのお姉さんみたいなの。だから今日もすぐ理解してくれたよ。でもさすがに心配だから、お店出たらすぐ私の家に来なさいって。岸田君と一緒に、って。嬉しいよね。嬉しいなあ」こうなると、真理はいつもの冷静な真理に戻っていて、染谷ともすでに連絡を取り合っていて、さっき別れた銀杏並木で午後八時に待ち合わせすることも決めていた。

 

「希望回復委員会。。。なんなんだ? それは?」

 

僕達は結局、銀座線にまた乗って今度は青山一丁目という駅で降りて、地上に出ると夜になっていて、色とりどりのネオンや行きかう車のヘッドライトがすごくきれいな青山通りをテクテク歩いて、外苑銀杏並木前の広場までやつてくると、染谷がぽつんと石垣にもたれるように立っていた。

その不安そうな佇まいを見て間違ってなかった、と思った。こんなか弱い女の子を一人、夜の店に行かせることなんて絶対しちゃいけないのだ、と強く思った。ヤマさんの言葉が蘇ってきた。そう。今夜、僕は真理と染谷を守るナイトになる。でも一体何に対してのナイトなんだろう。夜の店といっても、かつて蕪谷が入り浸っていた店だ。恐ろしいはずがない。いかがわしいわけでもないだろう。どちらかといえば、そこは蕪谷の味方のはずじゃないか。そこで僕達は蕪谷を絶望に追い込んだ事件について聞く。なぜ、彼が都会のハリネズミになったのか。なぜ、深い心の傷を負ったのか。なぜ、僕達の町、『旅人』にやってきたのか。そんなことを、だ。すべてはわからないかもしれない。でも少なくとも、少しは蕪谷に近づける。本当の意味で友人になれる。蕪谷を救出するいい手段が見つかるかもしれない。店の人も協力してくれるかもしれない。でも本当にそうなのだろうか。『希望回復委員会』。一体どんな店なのだろう。

 

僕達三人は、青山通りを渋谷のほうに歩いていた。時計を見ると八時半だった。田舎の中学生にとって、夜の八時半といえばもう真夜中に近い感覚なのだが、事実、旅人町の夜八時半は、外に出ても真っ暗で犬の遠吠えって感じなのだが、ここ東京のど真ん中では、行きかう人も車も元気いっぱいでネオンもとてもきれいで、まだまだ夜も序の口、といった熱気に満ちている。

VANの巨大な看板の前を通って、古風な質屋の前を通って、東急ストアというスーパーの前を通って、青山通りから外れて路地に入り込んだところで真理がつぶやいた。「蕪谷君、なんでそのお店に入り浸っていたのかな」

でもそれだけだった。僕達はまた無言で歩いた。またもや路地を曲がり、すると通りの喧噪は嘘のように静まり、人通りも極端に少なくなった。僕達は迷路のような路地を右に曲がり左に曲がり、もうこの辺りになるとほとんど人も通ってなかった。

「こんなところにお店、あるの?」さすがの真理も心配そうに訊いた。

「昼間やってきた時も、人通りはありませんでした」染谷がそう言いながらまた路地を曲がると、そこは突き当たりになっていて、目の前に、空色のペンキで塗られた木のドアがぽつんとあった。

「ここです」染谷が緊張した声で言った。

空色のドアには明かり取りがなく、道に面している壁に窓は一つもなく、つまり店の中はまったく見えなくて、ただドアの横に『希望回復委員会』と書かれた素っ気ない木の看板があるだけだった。

「やってるよね」真理の声も緊張している。

「しかし、これって店なのか? ほんとにライブハウスなのか? 中からまったく音が聞こえないぞ」僕は言った。

染谷は大きく一回深呼吸すると、ドアノブに手をかけ軽く押した。するとドアは、ずっと昔から僕達を待っていたかのように音もなく開き、僕達は気づいたら店内にいた。