WEB/STORY「哀しき70’s Kids」ch.2

「染谷美保はオレのことが好きなのか?」

 

家に帰るとすぐさま二階の自分の部屋に上がり、フスマを開け、机の前に座った。

 

結局今日も決まらなかった。

 

僕達のバンド、意気だけは盛んだけれど、いつもまとまらない。

 

 

ch.1

  これから中学3年の頃のこと、西暦でいえば1975年の初夏から秋の終わりにかけて僕の周りで起きた出来事について記す。いわゆる思い出話ってやつだ。一人の男の子がいなくなり、一人の女の子がいなく[…]

WEB/STORY「哀しき70’s Kids」ch.2

 

 

 

 

 

 

「染谷美保はオレのことが好きなのか?」

 

家に帰るとすぐさま二階の自分の部屋に上がり、フスマを開け、机の前に座った。

 

結局今日も決まらなかった。

 

僕達のバンド、意気だけは盛んだけれど、いつもまとまらない。

 

ラジオのスイッチを入れる。

ラジオ北関東『ミュージックジョイ645』のテーマが流れ出す。

6時45分からはじまる音楽番組だから 『ミュージックジョイ645』というきわめて安易なネーミングの番組である。

けれど中身はどうしてどうして最新の音楽をバンバン流す大好きな番組だった。

 

 

今日はオールリクエストの日である。

最初のリクエストはロバータ・フラックの『やさしく歌って』。

この曲もええなあ、心がホッと落ち着いて思わずホットコーヒーでも飲みたくなるぜ、と、どうしようもないダジャレを一人で言って一人で笑ってから、さて、と観念してカバンから英語の教科書と問題集を取り出した。

これで万が一母親が部屋に入ってきても言い訳がつくし、それに一応僕は受験生なのだ。

 

けれど勉強には全然身が入らなかった。

ついつい勉強とは関係のないことを考えてしまうのだった。

まあ、机に向かっている時間とテストの点数が正比例するならば一日中机の前で過ごしてもいい覚悟はあるのだが、世の中そううまくはいかない。机に向かってもラジオを聴きながらぼおっと他のことを考えていれば何時までたっても成績はあがらない。

そう、僕は問題集を見つめながらいつも全然別のことを考えてしまうのだ。

 

考えることはたいてい決まっている。

 

バンドのことである。

やっぱりバンドはいいぜ。

ベースがブンブン、ドラムがドコドコ、エレキがギュンギュン、うーん、血が騒ぐ。

ボーカルは当然俺です。だってヤマさんはおよそボーカルという顔をしていないし、ダースコは声が下品すぎる。

ここは数々の名曲に精通しているこの岸田誠様が一発、『ヘイ・ジュード』か、はたまた『悲しみのアンジー』なんかを熱唱して、女子をうっとりさせるしかないだろ、と、ステージに立つ自分の姿を思い浮かべてはニンマリしてしまうのだ。

その時、ラジオから風の『22歳の別れ』が流れてきた。ヤマさんが狂喜乱舞して名曲に推す曲である。

僕はその歌を聴きながら自分22歳のときって一体どうなっているだろうな、とそんなことをぼんやり考えはじめた。

この歌の男女は17のときから付き合っていたんだな、すると高校生からだな、それはなんかすごく不純じゃないか、不純異性交遊ってやつだな、とそんなこともぼんやり考えた。

でも好きな人と一緒にいられる、一緒に暮らせる、ひとつのフトンで寝られる、って、なんかすごくオトナで素敵だな、とそんなことも同時に考えるとなぜかヨダレがこみ上げてきた。

ヨダレを飲み込んだところで『22歳の別れ』が終わった。けれどこういう日本のフォークを聴くと、どうしても体のあちこちがムズムズしてくる。ナヨナヨしていてメメしくてベタベタしているからだ。

洋楽は違うんだな。同じアコースティックでも。

たとえばジェイムス・テイラー。甘いが、乾いている。ボブ・ディラン。これまた辛くて渋い。でも熱い。甘い甘いだけの日本の歌とは大違いなんである。

 

 

そんなことを考えていると突然名前を呼ばれたような気がした。

確かに誰かが僕の名を呼んだ。

確かに。

周りを見回す。誰もいない。だが、もう一度誰かが僕を呼んだ。

犯人はラジオのDJだった。

 

日本中のマコトくん。

聴いてますか? 君のファンからハガキがきていますよ。

 

DJはそんな世迷言を口にしていた。

 

いいね、幸せモノのマコトくん。ちゃんと耳を澄ませて聴いてくださいね。

じゃあ読みます。

 

マコト君へ

ずっと前から好きでした。

中3になった今でも大好きです。

ただ直接告白するほどの勇気はありません。

でもこの気持ち、どうしても伝えたい。

だから、せめて、ラジオで伝えます。

ずっと好きでした、マコト君。

リクエスト曲はマコト君の大好きな曲、ジョン・レノンの『イマジン』をお願いします。

3年2組のマコト君へ。いつもあなたを見ているM・Sより。

 

 

ジョン・レノンの『イマジン』がかかっている。けれど熱に浮かされたフラミンゴのように節々がガクガクしていてぜんぜんその名曲が頭に響いてこない。

何? 3年2組のマコト君? 『イマジン』が好き?

確かに俺の大好きな曲だ。ということは、やはりこのマコト君は、俺のことか?

いや、そんなはずがない。

強く頭を振った。

いいか、おまえが女にモてるはずがない。それはおまえが一番よく知ってるはずだ。

しかも3年2組だっていろんな3年2組がある。西中かも知れないし、東中かも知れない。というより、この町の中学校じゃないかも知れない。だいたいラジオ北関東は北関東一帯を支配する大メジャーラジオだ。そうだ、旅人町の中学校ではない。

それにジョン・レノンの好きなマコト君なんて世の中にはゴマンといる。まったく人騒がせな葉書だ。書くならちゃんと書けばいいんだ。住所、所属中学校、生年月日、血液型に星座と趣味、そこまできちんとひとつひとつしっかりと。

それに自分の名前もだ。そう、そう、そういえば確かM・Sといってたな。M・S…M・S…M・S?

う…ん?

 

もしかしたら、いや。

 

まさか、そんなことがあるはずない…。

 

でもひょっとしたら。

 

えっ? えっ?

まさか。

 

M・S?

 

…美保…染谷…?

 

 

ヤマさんの、ダースコの、僕の、いやいや南中男子全員のマドンナ、染谷、美保。

染谷の顔が脳裏に浮かんだ。やさしい笑顔である。肌はキリマンジャロの粉雪のように白く、髪は阿寒湖のマリモのごとく柔らかな漆黒、瞳は深山のダイヤモンドのようにキラキラしていて、鼻筋のスッとしたまちがいない美少女。

しかも単に美少女なだけではない。

成績もきわめて優秀である。南中でヤマさんといつもトップ争いを演じてるのはこの染谷ともうひとりの優等生少女、坂下真理である。

で、僕はだいたい真ん中へん、ダースコはというと…。

 

えー、先を続けよう。

 

しかもこの染谷美保、単に美少女で頭がよいだけではない。

毎朝早く登校して学級の花に水をさすような優しさに溢れ先生の申しつけは完璧にこなし、けれど決してでしゃばらず思いやり豊かで、つまりニッポンの宝、非のうちどころのない女の子なのだ。

 

…その染谷美保が? 俺を?

 

いやいや、そんなはずがあるわけない。染谷が恋だの愛だの、好きだの惚れただの、そんなはしたない感情を持つはずがない。

 

でも?

 

 

いやいや。

 

 

 

…でも?

 

 

 

 

 

 

 

 

「蕪谷樹一郎がやって来たんだ。ここから物語が始まるんだ」

 

 

6月なのに夏の匂いをはらんだ朝。くっきりとした光の粒がいたるところで乱反射している。

が、気分はどうにも晴れない。まぶたも重い。

ほとんど眠れなかった。

悶々としていたからだ。マコト君は自分か、M・Sは染谷か、ということもそうだが、心配事が出来てしまったからだ。

それはつまり昨日のラジオを誰かが聴いていなかったか、ということだ。

そのことによって僕をからかいはしないか、という心配である。

 

校門手前でさっそくダースコに会った。

にやにや笑っている。思わずドキっとする。

が、ダースコは、「マー、目、赤いぞ、昨日の夜、やったろ。何回マスかいたんだ?」と、下品極まりない声で、品性のかけらもない言葉を吐く。でも、どうやらダースコは聴いていなかったようだ。

教室に入り自分のロッカーにかばんを放り込む。

すぐさま剣道場に行き朝練を始める。ここでも茶化したり冷やかしたりするやつはいない。

 

朝練が終わり教室に戻る。

ほとんどの者がすでに来ている。僕は自分の席に座りあたりをそっと見回す。特別挙動不審の者はいない。

 

ホッと胸をなでおろしたその時、後ろで大声がした。南中一の不良、佐島である。

「よお、昨日、ラジオでよぅ」佐島の声はとにかくでかい。みんなを一瞬にして黙らせる威圧感がある。

「だからぁ、昨日、ラジオ、聴いてたらよぅ、ハッハッ、笑えるぜ」

まずい。佐島が聴いていたのか。一番悪いやつに聴かれてしまった。

この佐島、根っからのいじめっ子である。人の弱点をつくことに関して天才的である。みんな嫌っているのだが、仕返しが怖くて誰もたてつかない。唯一対抗できるのはヤマさんだけである。

これからしばらく僕はからかいの対象になる。

いやそれだけでは済まないだろう。

放送を聴けば、M・Sが染谷美保と直感するに決まっている。佐島も染谷のことが好きだからだ。嫉妬の入り混じった激しいいじめは容赦ないだろう。

 

青くなり観念した。目をつぶった。

「だから、昨日のラジオでよぅ、俺のよぅ、葉書がよぅ、読まれたんだぜ、ベイベ。ハッハッ、すげえだろ。セイヤングのよぅ、チンペイのよぅ、天才、秀才、バカシリーズだぜ、ヘッヘッ、すげえだろ」

取り巻きが、すげえ! と合いの手をいれた。

「で、佐島くん、どんなこと書いたの?」

「そこ、聞く? そこ、聞くかあ?」佐島のニヤニヤ声がうっとうしい。

「聞きたいよ。佐島くんのことだから、すげえセンスいいんだろうなあ」

「まあ、なんたってよ、採用されたぐらいだからな。これでチンペイに、アリスに誘われたらどうしよっかな」

 

誘われるわけ、ないだろ! バカ。

 

「佐島くんなら、歌、うまいし、センスあるし、誘われるかもね」

 

バカバカ。田舎の中学生が誘われるわけ、ないっていうの!

 

「でえ、佐島くん。どんなの投稿したの。じらさないで教えて」

「ははは、じゃあ、いいか。耳ほっかじってよく聞けよ。まあ、チンペイも認めたセンスだから、おまえらにはちょっと高級すぎてわからないかもしれねえけどよ」

パチパチパチ! 取り巻きが盛大に拍手する。

 

教室中が静まりかえっている。

佐島が、ひときわ声を張り上げた。

「天才はいう…人は人の上に人を作らず」

しーん。

「秀才はいう…人は人の下に人を作らず」

しーん。

「じゃあ、バカはなんていうと思う?」

しーん。

「ははは、まあ、チンペイも脱帽だったぜ」

静寂が支配した教室に佐島の満足そうな声が鳴り響いた。

 

「バカはいう…人は人の上に人を乗せて人を作る!」

 

バカだ。バカすぎる。

 

でも、違った。よかった。ホッとした。

ホッとすると人の常、きれいなものを見たくなる。僕は左斜め55度の方角を見た。そこには染谷美保が座っている。

自分のかばんから教科書を取り出して机に入れようとしているところだった。

素晴らしかった。

一連の動作が優雅なのである。両脚が柔らかくクの字に曲り、スカートのスソがひらりと上品に舞うのである。

他の女子では、こうはいかない。

かばんからドタドタ教科書を落としスカートをバッとまくしあげ机のなかに教科書をぶちこむのだ。

その間もおしゃべりを止めない。きのう『ベストテン』見た? ひろみがカッコよすぎてさ、思わず号泣! なんで、あんな素敵な人がこの世にいるの? なんでこのクラスの男はダサすぎなの? おんなじ人間には見えないって、ネー!

続いて染谷美保は座った。これまた素晴らしい。羽が舞い降りるようにひらりと座るのだ。

他の女子ではこうはいかない。

ドタ! バサ! ブッ! となる。最後のブッ! は女子が座るのをみはからって、ダースコが口とてのひらを使って出した音である。つまり、ブッ! と音をさせて、屁しただろ、クセえ! とやるわけだ。するとやられた女子は、おまえのほうだろ! このクソダースコ! とダースコの背中をバンバン叩くのである。

 

まったく違う。

 

ヨダレがこみ上げてきた。

ずっと染谷美保を見ていたかった。

けれどあまりに長く視線をそこに止めておくと誰かに囃立てられてしまう。だから感づかれる前に視線をずらそうとするのだが、なかなか目を離せない。

 

染谷に見とれているうちに昨日の思いが胸のなかでムクムクともたげてきた。

つまり昔から、転校してきた時から(そういえば染谷は転校生だった。小学5年生の時、横浜から転校してきたのである)染谷美保は僕のことが好きで、でもそんなはしたない感情を表に出せるはずもなく、だから中3になるまで密かに小さな胸に(染谷美保はどちらかというと長身で細かったから胸もそれに見合って、たぶん、小さい)僕への想いをしまっておいて、でもとうとう堪えきれなくなって思わず葉書を出してしまったのではないか、と妄想は果てしなく続き、そう思うとよけいにヨダレが込み上げ顔の筋肉がフニャフニャになってしまうのだった。

 

ふと我に返りヨダレを飲み込むと、すぐ横にヤマさんのジャイアント馬場顔があった。

「マー、なに、見てた?」

「い、いや」

あわてる僕をヤマさんが不審そうにのぞき込む。

「染谷さんに見とれてたろ?」

「まさか」僕は強く否定した。

「ホントか?」

「ホントだ」

「なんか、うれしそうだな」

「ボクぅ? いや、オレぇ? べつにぃ、普通と変わんないな」

「いや、匂う」

「何が?」

「匂う。プンプン匂う。マー、なにか、あったろ、なあ、白状してみ、俺達親友だろ」

 

その時、担任が教室に入ってきた。

3年2組の担任は、外山茂生、27才独身、である。

というといかにもモテそうだが、ところが女子全員から毛嫌いされている。

ナヨナヨした長身の体をクネクネ動かしながら伏し目がちにボソボソ話す態度や、ペタッと頭に張りついている油っぽい髪の毛や、袖口がいつも汚れている背広など、とにかく彼のすべてが女子の生理的嫌悪を誘うらしいのだ。

さらにやめておけばいいのに最初の自己紹介で、僕は茂みから生まれた外山茂生です、とやったからもういけない。そこで完全に女子の評価が定まってしまった。

以来彼は、ボツ、と呼ばれている。つまりボツな冗談しかいわない、ひいてはボツなやつという意味である。

 

そのボツ、今日も首をふりふり、長身の体をくねらせながら教室に入ってきた。

ここまではいつもの朝の光景である。

普通ならこの後ぼつぼつ小さな無気力声で出欠を取り、今日の予定を告げ、肩を落としながら教室を去っていくのだ。

 

けれど今日は違った。

教室全体が異様なムードに包まれた。自然とどよめきが起こった。僕も知らないうちに声を上げていた。

 

ボツの後ろに僕達と同じ年頃の男がいたからだ。

 

しかも、なんと真っ赤なシャツに真っ青なジーンズ、坊主頭ではなく(我が南中学は当時の田舎の、大半の中学校がそうであるように当然坊主頭だった)耳までかかる長髪、といういでたちだったからだ。

 

「かぶら、たに、じゅ、いちろう、くん、です。かぶら、たに、くん、は、東京の、原宿からの、転校、生、です。今日、から、三年二組の、仲間です。あ、今日、は、制服がまだ、用意、でき、ないというので、私服、です。あ、髪、の毛も床屋に行けなかった、ということ、でまだ長髪、です。…では」

 

ボツがわずかに首をかしげた。蕪谷樹一郎にあいさつせよ、という合図らしかった。だが彼の首はいつも揺れ動いているのでその意図は判然としなかった。

 

しん。

 

誰もがその男、蕪谷樹一郎に目を奪われている。

恐ろしくきれいな男だった。

すらりと伸びた長い手足。贅肉のないしなやかな体。

小さな顔。雪を思わせる白い肌。ほどよく高く形のよい鼻梁。切れ長の目。

栗色がかったさらさらの長髪。女の子なら一度は夢見るであろう白馬にまたがる王子様のような、つまり明星と平凡とスクリーンとテレビとセブンティーンでしか見ることのできない超のつく美少年だったのだ。

 

ひろみ・GOといい勝負か、見ようによっては凌駕している。

だが、同時に、誰もが背筋にざわつく何かを感じていた。

瞳だった。

啄木鳥が深夜の森で木を叩く音にも似た、世界のすべてを拒絶している瞳。

 

誰もがこの異様な転校生があいさつを述べるだろうと思った。

だから待った。

けれど彼はいつまでたっても口を開かなかった。彼はその冷たい瞳で僕らを睨み続けるだけだった。

 

奇妙な沈黙…。

期待ととまどいと緊張の入り交じった沈黙。

ボツがみかねて、かぶら、たに、くん、なにか、ひとこと、あいさ、つ、を、と首を振りつつ小さな声で言った。

それでも彼はしゃべらなかった。黙ったまま、僕達を見下すように立ちつくしていた。

 

突然、怒鳴り声がした。

「ふざけんな、テメェ、自分を何様だと思ってんだ!」

佐島である。

「おう、テメェのことはぜったい、イジメてやる、覚悟しとけ、このスカシ野郎!」

ボツが小さな声で、佐島、やめなさい、佐島、だまりなさい、と注意する。けれど佐島はまったく意に介さず、さらにわめきたてる。

「てめえは転校生だろが、転校生ならあいさつするのがあたりまえなんだよ、これから、よろしくお願いします、ってアタマァ、下げるのが常識なんだよ!」

ガタン!

机が鳴って佐島が立ち上がった。蕪谷樹一郎を正面から睨みつけた。

すごい形相である。佐島にこの形相でにらまれたら、この南中で立ち向かえるやつは、繰り返すがヤマさん以外にいない。

 

だが。

 

蕪谷樹一郎は、射るような目で佐島をにらみ返したのだ。

そのまま二人はにらみ合った。

佐島は異様なほど興奮していた。もしかしたら怯えているのかもしれない、そう思えるほどブルブル震えていた。

 

突然ヤマさんが立ち上がった。

佐島のところにゆっくり歩いていくと肩に手を置いた。

「なあ、佐島よぉ、こいつもたぶん緊張してるんだ、おまえもそんなに熱くなるなって」

 

みんながほっと肩の力を抜いたその時だった。

 

笑ったのである。

 

蕪谷樹一郎が、その冷たい瞳を反転させ、笑ったのである。

 

信じられないほど無垢な笑顔だった。

一瞬にして世界中の光と称賛と憧れをこの場に集約し、何倍もの多幸感を付与して出力する、そんな磁力とインフルエンスを帯びた笑顔だった。

 

教室中の誰もが、その圧倒的な笑顔に吸い寄せられ、しばしの恍惚に浸った。

ヤマさんも、ボツも、佐島でさえ、ポカンと口を開けて、蕪谷の笑顔に酔った。

 

蕪谷は、しばらくその圧倒的な笑顔を見せつけると、一言、

「キミたちって、なんか、すごいね」と言い残して教室から出ていってしまった。

魔法だった。

蕪谷が出て行ってからも誰も動けなかった。

 

 

 

ふっと我に返ったボツが彼の後を追って慌てて姿を消した。

それを合図に教室中がザワつきだした。

佐島は、心底、気に入んねえ、イジメてやる、イジメぬいて湖に沈めてやる、とわめいていた。

ベイシティローラーズ大好きなミーハー少女Aはすでに目をハート型にしうわずった声で、ねえねえ、蕪谷君のファンクラブ作るよ、ぜぇったい! とミーハー少女Bと一緒にわめいていた。

喧噪の中、僕はそっと染谷美保を見た。

彼女は身じろぎひとつせず座っていた。

先ほどまで蕪谷樹一郎の立っていた場所をじっと見つめながら、ただ座っていた。

 

僕はその、いつまでもまっすぐ一点を見つめて動かない染谷美保の姿に心の奥底がざわついたのだった。

 

 

 

その日、蕪谷はとうとう戻ってこなかった。戻ってきたのは首振りボツだけだった。

佐島が当然のごとく食いついた。

「あのう、ボツ、じゃねえ、外山センセよぉ、あの、よぉ、さっきの、よぉ、転校生、よぉ、なんで坊主じゃないんだ。ヒーキじゃねえか」すると佐島のとりまきが一斉に、ヒーキ! ヒーキ! とシュプレヒコールをあげる。

「そんで、よぉ、あいつは、よぉ、いったい何様なんだ? 俺らにも知る権利ちゅうもんがあるだろ、よぉ、教えてくれや、どこに住んでて、なんで転校してきたんだかを、よぉ」そーだ、そーだ、とまたとりまきがシュプレヒコールをあげる。

佐島はいつも理不尽なことばかり言っているのだが、この発言にだけはみんな深くうなずいた。

 

ボツはしばらく首を振りながら黙っていたが、ようやく一言こう言った。

 

「…病気、なん、です」

 

「ビョーキィー!」みんなが一斉に声を上げる。

「ど、ど、どんなビョーキなんですか?」ミーハー少女Aの鬼気せまる口調。

ボツはまたまた首を振りつつ困ったような仕種をしていたが、佐島が、よお! 話っせっよ! とドスの利いた声で脅すとビクッと飛び跳ねて、そして言った。

 

 

「学校、に、行け、ない、と、いう、病気、なん、で、す」