WEB/STORY「哀しき70’s Kids」ch.11

  • 2020年8月15日
  • 2020年8月24日
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「ミチとシュラ…   哀しい70’s kids」

 

ものすごく暗い店だった。ものすごく静かな店だった。右側は長いカウンターになっていて、ところどころにキャンドルが置かれていた。後ろには仄かな電球に照らされたお酒のビンが並んでいて、カウンターに沿って脚の長い椅子が何脚か置いてあった。左手はまっ白い壁だった。カウンターが途切れたあたりが左手に割れていて、その奥に広いスペースがちらりと見えた。それだけの店だった。観葉植物もテーブルも、音さえもなかった。カウンターに一人の男が座っていた。僕達が入り口で棒立ちになっていると、その男がゆっくりとこちらを向いた。

 

WEB/STORY「哀しき70’s Kids」ch.11

 

chapter.10

「夕暮れの河原、僕と真理と、蕪谷だけの、川の音」二学期になった。朗報があった。シンプルドリームの学校祭出演に正式許可が下りたのである。これはもう山田正義、坂下真理、染谷美保、という優等生トリオの信頼の賜以外の何ものでもなかった。だか[…]

 

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「さて、君達はいったい誰でしょう?」柔らかく、澄ました声だった。

男は口髭を生やし、肩まで髪を伸ばしていて、すごく痩せていて、薄く柔らかそうな、見ただけで高価とわかる素材の白いシャツを無造作に着ていて、裾の広がったジーンズを履いていて、おまけにビーチサンダルだった。二十代半ばか三十ぐらいだろうか。鼻筋が通っていて、整った唇をしていて、とにかく不思議なオーラのある男だった。どこかで見たことのある男だ、と記憶の引き出しをひっくり返したが、どうしても思い出せなかった

染谷が緊張した声で言った。「私達、蕪谷さんの友人です」

男が小首をかしげた。「蕪谷? 知らないけれど」また前を向いて、グラスを口に運んだ。中の氷がカランと音を発し、洞穴のような店に残響を残した。

それからしばらく、男は僕達の存在がないかのように、まっすぐ前を向いたまま、時折、お酒を飲み、氷を鳴らし、残響を残す動作を繰り返した。僕達は身動きもできず、声を出すこともできず、ただ立ち尽くしていた。

どのくらい経っただろう。突然、男が、あっ、と小さな声をあげ、ドアの前で立ち尽くしてた僕達をゆっくりと見た。「もしかしたら、シュラの友達?」

「シュラ?」僕は思わず訊き返した。

「えーと。ほら。君達と同じぐらいの歳の、君達、まだ中学生か高校生でしょう? そう、同じぐらいで、すごくきれいな顔をした男の子。モデルだった。シュラ。違う? 君達、シュラの友達でしょう」

「蕪谷樹一郎、という名前ですけど」真理の言葉に、ああ、と男は思い出したようにうなずいた。「そうそう。ジュイチロウ。そう。そんな名前だった。ここではみんなシュラっていってたけど。うん。そうだ。ジュイチロウ。そうだった」

「なんでシュラなんですか?」僕が訊くと、けれど男はそれには答えず、「まあ、好きなところに座って」と言って静かに立ち上がり、天板の切れ目からカウンターの中に入った。

「何か作ってあげよう。オレンジジュースでいいかな」

僕達は一斉にうなずくと、「あなたはお店の人ですか?」と染谷が訊いた。男は答えず、緊張した面持ちの染谷をちらっと見ると言った。

「とにかく座って。夜は長いからね」

男はオレンジジュースを僕達の前に置くとレコード棚を物色しはじめた。

「あっ」

音が流れ出し、僕は声をあげた。「僕、この曲、好きなんです。すごく好きなんです」僕は言った。

ザ・シティの『スノークイーン』だった。生まれた時からの名曲だった。

男は自分の席に戻ると残っていたお酒を飲み干し、「キャロル・キング。いいよね」と言った。

音が流れ出すと店の雰囲気が一変した。冬の洞穴に心地よい春の日差しが差し込んだ、そんな感じだった。

「さて。君達はいったいここに何をしにきたのでしょう」オレンジジュースと音楽でようやく緊張がほぐれてきたのか、染谷が意外にも落ち着いた口調で答えた。

「実は、蕪谷さん、その、シュラさんのことを知りたくてきました」

「でも君達はシュラの友達でしょう」

「はい。でも蕪谷さん、今、私達のところにいないのです」そうして染谷は、これまでのいきさつを説明した。染谷が話し終わった頃、レコードが終わった。男は黙って立ち上がるとレコードを替えた。

「あっ」今度は僕と真理が同時に声をあげた。『小さな恋のメロディ』のラストシーンにかかってた曲だ。これまた永遠の名曲である。

男は僕と真理を均等に見つめると、「観た?」と言った。僕と真理は同時にうなずいた。男はそんな僕達に小さな笑みを送ってから自分で自分のお酒を作ると、そのままカウンターの中で僕達と相対した。

「それで、訊きたいことって?」

正面に立たれると、彼のオーラがまっすぐ伝わってきた。華奢なのに、すごく大きく見える。ようやく思い出した。この男、よくテレビに出ていてすごく人気のあったGS『スマッシュズ』のボーカル、杉本サイヤだ。

「はい。主に三つあります。ひとつはこのお店に来ていた頃の蕪谷さんの様子。ふたつ目は蕪谷さんがすごくショックを受けた事件について。もうひとつは、道の写真のことです」染谷が整理された言葉で答えた。

「道?」サイヤが小首をかしげた。「道の写真?」

「蕪谷さんが私達の町にやってきた目的がこの写真だったのです」そうして染谷は例の写真をカウンターに置いた。ずっと謎のままの写真。アメリカ開拓時代のゴーストタウンのようにも見える、土埃が舞っているような、生命の存在がまったく感じられない一枚の写真。

「この写真は、蕪谷さんの彼女が持っていた写真でした」染谷が言った。

「えっ?」僕と真理は同時に声をあげた。

…蕪谷の、彼女?

「実は昨日、フサさんからその話を聞きました。この写真は蕪谷さんの彼女が持っていたものだった、と。でもその女の人は死んでしまった。それから蕪谷さんは部屋に籠もって、全く出てこなくなった、と」

ラジオDJの葉書を思い出した。

ということは、『道をなくした者』とは、やっぱり蕪谷だったのか?

そういえば蕪谷自身も、こう言っていた。「愛した者を失ったことはあるか?」と

でも、そうすると、染谷は、蕪谷に彼女がいたことを知ってしまった、ということか。いったいどんな気持ちで染谷はその話を受け止めたのだろう?

サイヤは写真をじっと見つめていた。すごくすごく長い時間彼は写真を見つめていた。突然、サイヤは酒を煽った。これまでの柔らかくいかにも都会的な物腰とはあきらかに違う、苛立ちを抑えられない、といった飲み方だった。

「だからやめたほうがいい、って言ったのに」サイヤは吐き捨てるように言ってレコードをチェンジした。今度はジャズだった。曲名もアーティスト名もわからなかった。好き勝手に演奏しているようなすごく荒々しく、すごく不安そうな音楽だった。

「お願いです。知っていることがあったらどんなことでもいいから教えてください」染谷が言った。荒々しい演奏に負けないぐらい気迫に満ちた声だった。サイヤはそれでも何か考え込んでいるようだった。突然僕達の方を向き、というより染谷を見て、言った。

「ところで、シュラのこと、好きでしょう」

染谷はまっすぐサイヤを見つめてうなずいた。

「愛してる?」

染谷はもう一度、うなずいた。

サイヤはそんな染谷を見つめ続けた。染谷もサイヤの視線に負けることなく静かに見つめ返していた。

「なら大丈夫かな。本当のことを話しても君なら大丈夫かな」突然サイヤは立ち上がり「ちょっと待ってて」と言い残し店を出ていってしまった。

 

 

 

サイヤがいなくなると、空気が一気に柔らかくなった。

「すごく緊張しました。すごく」染谷が言った。

「美保、がんばった。えらい」真理が言った。

僕も、「染谷さん、すごい」と素直に感想を述べると、さっきから気になっていた奥のスペースを覗いてみた。

そこはカウンターからは想像できないほど広いフロアになっていてステージまであった。やっぱりここは正真正銘のライブハウスだったのだ。ステージ中央にはドラムセットがあった。アンプがあった。生ピアノが、キーボードがあった。マイクスタンドにマイクが設置されていた。ギターが、ベースが、何本も立て掛けてあった。蕪谷はこんな本物なところにいたんだ、そいつから俺はギターを教わったんだ、と思ったら自分がすごくギターがうまくなったような気がしてきた。たまらなく蕪谷に会いたい、と思った。

またもや店内の空気が揺らいで、ドアの開く気配がした。急いでカウンターに戻ると、今度はとてつもなく太った男がどたどた入ってくるところだった。ピンクのジャケットにストライプのスラックスという派手な出で立ち、お腹が大きく出っ張っていて、まるで高木ブーとカネゴンを足して二で割ったような印象の男だった。

「えっと、サイヤちゃんが言ってた子って君達?」男は甲高い声でそう言うと額の汗をハンカチで拭き、僕には目もくれず、真理と染谷を、それこそ、上から下まで、値踏みするようなねちっこい目で見た。「うんうん」と大げさにうなずいて、「サイヤちゃんの言うとおりだわあ。君達、すっごいキレイ。どっちもすっごいステキ。お歳はいくつ?」と訊いてきた。染谷と真理が怯えた表情で僕を見た。ヤマさんの言葉が頭をよぎった。そうだった。俺はナイトなんだ。

急いで僕は男と真理達の間に割って入り「あの、蕪谷のことなんです。教えてくれませんか、蕪谷のことを」と強い口調で言った。

男はちらりと僕を見ると、ハンカチでもう一度額の汗を拭き、象のような脚を投げ出すように座った。

「ああ、そうだったわね。うん。そうだった」男は初めて僕を認識したかのように大げさに驚くと、でもすぐに人懐っこい笑顔を浮かべ、ちょっと待ってて、息を整えるから、と、三回ほど大きく深呼吸をした。

 

「あ、ボクはこういう者、よろしくね」どうにも軽い声で男はそう言うと、僕達に名刺を差し出した。そこには「オーシャン・プロダクション、エクゼクティブ・プロデューサー 高木文夫」と書いてあった。やっぱり高木ブーだったのか?

「あのさ、朝倉そのみって知ってる?」高木ブーが訊いた。もちろん、知っていた。今売り出し中の歌手で、第二の南沙織と呼ばれている子だ。確か沖縄出身で、デビュー曲も南沙織の「十七才」に似た曲調の軽やかなポップスだった。だから僕達がうなずくと、高木ブーは満足げな笑みを浮かべ、

「朝倉そのみを育てたの、ボクなのよね。でもね、あなた達、あ、女の子二人の方だけど、絶対すごいスターになれると思う。どお? ボクがプロデュースしてあげるから。ほら、シモンズみたいに二人で売り出してもいいし、ピンでもいいわ。どちらもすごく光ってる。磨けば恐ろしくなるわよ。絶対」と言った。

あ、女の子のほう、って? と完璧に僕のナイト魂に火がついた。その男のねちっこい視線が真理や染谷に届かないようにさらに身を乗り出すと、「ですから、蕪谷の話を聞きにきたのです。蕪谷、の」と語尾の「の」をことさら強調して言った。

「あ、そうそう。シュラね。うん。彼も惜しかった、すごくいいもの持ってたのにねえ。彼、元気してる?」

「だ、か、ら」僕は苛立っていた。「サイヤさんから聞いてないのですか」

「ああ、そう、そうだったわね。彼は今施設にいるんだってね。だからボクの言うとおりにしてればよかったのにねえ」と大げさに嘆息すると、それでもあきらめきれないのか、僕の体を素通りして真理や染谷をなめ回すように見ている。

「うんとね。そりゃあボクの知ってること、全部話すけど、っていっても、どうだろう。この店以外の彼については全然知らないから、参考になるかな。どうだろうな」

「いいです。このお店での蕪谷さんのことが知りたいのです」染谷が痛いほど真剣な表情で言った。すると高木はまた大げさに目を見開いて、「あら、すごくいい声してる。あなた。ほら、鈴を転がすようなっていうじゃない。まさにそれ。魅力ある。天は二物を与えたってやつ? あなた、歌うまい? ああ、うまくなくてもいいわ。浅田美代子の例もあるし」と言う。なかなか本題にいかないので、ついに僕は高木を睨みつけた。脂ぎったその顔は不健康に黒かった。年齢は杉本サイヤとそう変わらないだろう。三十歳ぐらいだろうか。

 

「とにかく彼が初めてこの店にやってきたとき、たまたまボクもいたんだけど、なんていうかなあ、すごい衝撃だったのね。彼はまだまだ子供だったのね。でも目はすでに子供じゃなかった。絶望を知っているそんな目だったわけ。美しくても子供が子供のままだったら普通の子供だけど、絶望を知っている目を持つ子供なんてそれだけですごいに決まってるでしょ。だから彼は来たその日からこのお店のメンバーになったの」

「このお店は、いったいどんなお店なのですか。というより誰がこのお店をやっているのですか」今度は真理が疑問を口にした。すると高木はまたまた驚いた表情を浮かべ、

「あらあら、あなたもすごいわ。ほんと素晴らしい。あなたのその少し低い声。そう。お顔も山口百恵にどことなく似ているし、声もすごく知的で、いたいけだわ。こちらもまた天は二物よ。あなた達、ほんとに素晴らしい。お国はどこ?」とまたまたねちっこく褒めちぎるのだった。もちろん僕だって自分の彼女のことを褒められて悪い気はしない。はずなのだが、この男にねちっこい女口調で褒められると、真理の価値が下がるようでなんとも嫌な気分になるのだった。

たぶん、不快感が全面に顔に出たのだろう、さすがの高木ブーも少し改まった口調で話を続けた。

「ああ、このお店はね、いわゆる業界人? の溜まり場なわけ。隠れ家、といってもいいかなあ。業界人っていうのはね、まあ、なんていうかな、芸能人とかカメラマンとかデザイナーとか、作家とか、マスコミの人のことを言うんだけどね、けっこう名前の知られた人が集まる店でねえ、ほら、芸能人やアーティストって、顔が売れてる人が多いでしょう。だから普通の店に行ってもリラックスできないわけ。みんなすぐに寄って来るでしょ。サインくれとか、握手してくれとか、写真撮っていいですか、とか。だから自然とこういったところに集まってくるわけ。ここ、敷居高いでしょ。場所もわかりづらいし、ドア一枚だけで何のお店かわからないし。わざとそうしてるの。しかも会員制。つまり紹介者がないと入れないの。でも会員になると、あとはほんとに自分の家のように過ごせるの。勝手にやってきて、勝手にカウンターの中に入って、勝手に音楽かけて。勝手にライブをやって。お代も勝手に置いていくの。そういう店。もちろんオーナーはいるわよ。すごい人。時代の波に乗っている。彼の仕事すべて当たりまくっている。毎日顔出すわけじゃないの。すごく忙しいから。でもオーナーは会員を信頼してる。だからね、だからこそ、ボク達もこの店をすごく大切にしてるの。だから変な人はいれないの。あなた達もほんとはすぐに追い返されてもおかしくなかったの。サイヤに。でも追い返されなかった。どうしてかわかる?」

「蕪谷の友達だから」僕は答えた。

「うん。まあ、それもあるけどね。違う。正解はね、あなた達、というか女の子が二人がすごく輝いていたから。そう。そういうこと。シュラもそうだった。彼の輝きは誰が見てもはっきりわかった。だから彼が突然、ものすごく突然、店のドアを開けたときも、誰も彼に帰れ、とは言わなかったの。一見さんで追い返されない人はめったにいないの」

確かにそうかもしれない、となぜか納得した。蕪谷が初めて教室に入ってきた時のことを思い出していた。誰もが彼から目を離すことができなかった。

「シュラのこと、みんな可愛がったわ。だって本当に可愛いんだもの。夜ふらりとやってきてカウンターの隅っこに座ってジュース飲みながら音楽を聴いたりみんなの話を聴いたりしてるの。ミュージシャンがやってくると楽器を教わったり。眠くなったらステージの隅っこで寝ちゃう。なんて言ったらいいかなあ、喩えは悪いけど飼い猫みたいな感じ。勝手にこたつの上で寝てるような。ああ、彼、すごく可愛かったなあ」

高木ブーが遠い目をしている。恍惚とした顔があまりに気色悪いので、さっき染谷が出してそのままカウンターに置きっぱなしになっていた写真を高木ブーに突き出すと、

「で、この写真のことなんですけど」と話を促した。

高木ブーは、写真を見るやそれまで弛緩しまくっていた表情を一変させた。

「ああ、これなの。ああ、このことだったの。え? これ、シュラが持っていたの? あなた達が持ってきたの?」

「サイヤさんからは聞いていなかったのですか?」僕は畳みかけた。仕方なくこれまでの経緯をもう一度高木ブーに説明した。蕪谷がこの写真の場所を探していたこと、そのために僕達の旅人町にやってきたことなどを。

話を聴き終わっても高木ブーの狼狽ぶりは収まらなかった。おおげさに手を振り回して、「ごめんね、シュラ、ほんとうにごめん。そんな気じゃなかったんだけど。だって、ほら、シュラは、まあ、あなた達もそうかな。だってシュラもミチも、セブンティーズ・キッズでしょ。七十年代の子、でしょ。だからね。だからなの。ほんと軽い気持ちだったの。あんな結末になるなんて。ああ、ああ」と譫言のように呟きながら、高木ブーは巨体を揺さぶってカウンターの中に入り込み、自分のお酒を作って、ついで、というか、こんな事態でも気がきく、というか、僕達にも飲み物を作って出してくれた。

彼が作ってくれたのはレモンアイスティーだった。ちょうど喉が渇いていたからなのか、悔しかったけど、すごくおいしかった。

高木ブーは自分で作ったカクテルを一口飲むと、何を思ったのか、突然、カウンターの中で、僕達をまっすぐ見つめたまま、泣き出してしまった。溢れる涙を隠すこともしないで、まさにオイオイといった感じで泣き出してしまったのだ。大の男が目の前でこんなふうに泣くのを見るのは、もちろん初めてだったので、僕達はあっけにとられて、しばらく号泣する彼をじっと見つめていた。

ひとしきり彼は泣くと、今度はお酒のビンを取り出して乱暴にグラスに注ぎ一気に飲み干した。グラスが空になるとさらにお酒を注いで、またぐいっと飲み干した。彼は立て続けにお酒を飲み続けた。

ようやく気持ちが落ち着いたのか、高木ブーが僕達のほうを見て、言った。

「最初はね。軽い気持ちだったの。というか、うーん。何ていうんだろう。あのね、ほんとは本気だったのかな。あの子達にとっていいことだ、と思ったの。純粋に。今思うとすごく悪いことをしたの。ボク達。シュラにもミチにも。すごく無垢でまっすぐでボク達を純粋に慕ってたあの子達に対してすごく酷い仕打ちをしてしまったの。思い出すだけで泣きたくなる。なんであんなことしてしまったのだろう、って。人間としてサイテー。神経が麻痺してたのね。だってこの世界って異常でしょ。あ、この世界って、ボクのいる芸能界のことだけど。この世界に浸っちゃうと、純粋さとかまっすぐさ、とかって、すごおく眩しくて、でも眩しすぎて、それじゃあ、危ないよ、って思うようになっちゃうの。そんなまっすぐじゃあ、これからの世の中生きていけないよ、って感じかな。だから彼らに汚れて欲しかったの。ああ、違うな。汚れてほしくなかったの。汚れるようなことをしても、彼らには白いままでいてほしかったの。だから実験だったの。ああ、そうだったかな。わからない。もっとビジネス的なことだったかも。だってミチもシュラもすごいオーラがあったじゃない。すごい女優、俳優になれるじゃない。だから一番効果的な露出の仕方を考えたの。それに詩があったじゃない。それが引き金っていえばそうなんだけど。オーナーが始めたの。最初はほんとに彼らのためだったんだけど。でも金の匂いのするところにはいろいろな人が集まってくるの。ボクも最初は、うん、おもしろそう、というか、ミチとシュラのためにもいいな、とか思っちゃったの。それにあわよくば、って言葉もあるでしょ。ミチは大丈夫ってわかってたし。でもミチが結局だめだったの。ああ、混乱してる。彼らには何の罪もないのに。彼らに矢を放ってしまったの。自分に放たなくちゃならない矢を、間違ってシュラ達に放っちゃったの。うん。そういうこと。すごおく後悔してるの。でも後悔しても時間は戻せないし。あー、どこから話せばいいんだろう」そこで高木ブーはまた泣き出してしまった。

「あー、だめ。ボクには到底説明できない。困ったわあ、こんな時、オーナーがいれば、うまく、もっとうまく説明してくれるのに」としゃくりあげたとき、またもや店のドアが開いた。

「あっ」高木ブーが、入ってきた男を見て、歓喜とも悲鳴ともとれる声をあげた。

「ひゃー、いったいどうしたっていうんでしょう。何でオーナー、来たの? ボクのお願い通じた? ねえ、この子達に説明してあげて。オーナー、お願い」

オーナーと呼ばれた男は、僕達を見て少し驚いた顔をして、錯乱している高木ブーを見て、さらに驚いた顔をした。

「おや? 今日はいったいどんな日なのでしょう。高木君はちょっと落ち着いた方がいいように見えますが。ところでこのお嬢さん方は今度売り出す子たちなのですか?」柔らかい声で男は言った。口調はサイヤに似ていた。東京の大人は、みんなこういう話し方をするのだろうか。

オーナーと呼ばれた男は、杉本サイヤや高木ブーよりは歳上に見えた。が、そう見えるのは、その見事な銀髪のせいかもしれなかった。同年代なのかもしれなかった。顔はどちらかといえば童顔だったし、体は細かったけれど、しなやかだった。デニムのシャツに薄いベージュの麻のジャケットを羽織り、きれいに色落ちしたジーンズを履いて、少しカールのかかった銀髪、細い縁のメタルフレームとあいまって、一見、テレビですごく難しいことを話している大学教授、といった風情の、恐ろしく知能指数が高そうな男だった。

「オーナー、とにかく説明してあげて。ねえ。お願い。この子達に。ミチとシュラの事件のことを」高木が涙を浮かべたまま、すがるように言った。オーナーと呼ばれた男は、カウンターの中に入りレコードをチェンジした。

流れてきたのはドリーミィな女性コーラスの曲だった。ラジオの五十年代アメリカンポップス特集でかかるような、少しばかりセピア色の音楽である。

「私の店にようこそ。静和といいます」男はカウンターの中から僕達に向かって丁寧に会釈した。静和は僕と染谷と真理を均等に眺めると、その見事な銀髪を軽くかきあげて、言った。

「あなた方はシュラのお友達なのですか」

僕達はうなずいた。

「それで彼の事件について知りたい?」

もう一度うなずいた。

「さらに」と言って、静和はカウンターに置いてあった写真をちらりと見ると言葉を続けた。

「さらに、この写真の謎について知りたい」

「そうです」今度は染谷がはっきり答えた。口調が苛立っているように聞こえた。僕も苛立っていた。サイヤに始まって、高木ブー、この静和という男に、それぞれ来訪した目的を語らなくてはいけない事態もさること、誰もがどうにもストレートにものを言ってくれず、真実の周りをぐるぐるたらい回しにされている感じがするからだった。

僕はもう一度、静和にこれまでの経緯を、今の蕪谷の現状を話してきかせた。

静和はメタルフレームの奥の瞳に感情を表すことなく、まるで大学教授が学生の実験を分析しているような感じで、きわめて冷静に話を聴いていた。

僕が話し終わると、静和はカウンターに雑誌を置いた。

「これは僕が企画した雑誌です。たぶん、シュラはこの本を持っていたと思います」

同じだった。蕪谷が待ち望んでいて、憎んでいたあの雑誌だった。

「あなた方も察しているとおり、ここは普通の店ではありません。世間一般の店が客に選ばれる店ならば、この店は、店が客を選ぶのです。なぜそのような店にしたのか。では、僕がこの店を始めた理由を、若いあなた方には理解しかねる面もあろうかと思いますが、まずは最初その辺りからお話しましょう」ずいぶん遠回りだった。が、しかたなく次の言葉を待った。

「この店は絶望を回収するために始めました。ですから当然のようにこの店に選ばれる客は、絶望している者、なのです。サイヤ君や高木君からすでに聞いているかもしれませんが、ここにはさまざまな職業のさまざまな人々がやってきます。その多くは、というより、そのすべてが、絶望し、あるいは途方にくれている者です。そう。キーワードは絶望です。絶望している者だけが、この店に選ばれる、というわけです」

そこで静和はいったん言葉を切ると、耳をそばだてる仕草をした。相変わらず店内はドリーミィな歌声で満たされていた。幸せそうな音の合間を縫って高木ブーの嗚咽が聞こえた。高木ブーはカウンターに突っ伏して涙を流し続けていた。

「僕達は今、一九七〇年代を生きています。すごく重要な時代を。なぜ重要か、というと、今、概念が死につつあるからです。今、刹那が復活しつつあるからです。だからこの雑誌に込まれたメッセージは、概念から刹那へ、なのです。ご覧になったこと、ありますか?」

静和が僕のことをまっすぐ見つめている。まるで僕がこの雑誌を知っているかのように。

僕はうなずいた。うなずきながら思い出していた。この雑誌を巡る蕪谷の言葉を。待っていた。憎んでいる。分水嶺。怖い。でも闘う。

そう。蕪谷は言った。闘う、と。挑むように静和を見た。

「蕪谷はこの雑誌についてこんなことを言っていました。フェイクだ、と。偽物だと」

静和は満足そうにうなずき、話し出した。

「かつて世界には刹那が満ち溢れていました。すごく自由な世界だったのです。すごく満ち足りた世界だったのです。何万年も、何百万年も人類は刹那の一部として生きていたのです。だが、ある時、突然、概念が出現しました。すると瞬く間に刹那は駆逐されました。しかも概念を獲得した人類はおそろしく複雑な社会を形作ることに成功しました。自然を、刹那を征服する力も得ました。そうして概念はついにその絶頂を迎えました。理性の時代、つまり現代です。つまり、人類の歴史とは概念がはびこり、刹那を殺していった歴史なのです」

静和の口調は柔らかく、まるでよく出来た大学の講義のようだった。たぶんすごく難しいことを話しているのだが、旅人南中学で成績真ん中の僕でさえなんとなく理解できるのだった。

ただ一点だけ、僕にはどうしてもはっきりわからないところがあった。だから訊いた。

「えっと、ほんとに基本中の基本なんですが、概念とは何ですか? 刹那とはいったいどんなもんなのでしょう?」

静和は、僕の問いに柔らかく微笑むと言った。

「そうです。そのとおりです。巨人の星を読んだことのない人に、背景の解説もなく、突然星明子が電信柱の陰から飛雄馬を見守っている理由を説明するようなものでした。では、極めて単純化して解説しましょう。概念とは意味です。言葉です。知識です。社会と言い換えてもいい。刹那とは強度です。感性です。感じる心です。歌です。または自然です。例えばここに一輪の花があるとする。概念とは、この花の名前は何で産地はどこで何科に属しているか、ということです。刹那とはただ美しい、と思う気持ちです。おわかりでしょうか」

これまた何となく理解できたような気がした。静和の声は相変わらず柔らかく明晰だった。それでも心の奥底に形容し難いざらざらが育ちつつあった。柔らかく心地よい静和の話。つい納得してしまいそうなその語り口。でもその奥にはなぜか得体の知れないざらざらがあるよう気がしてならなかった。

静和は僕の反応にとりあえず満足したのか、さて、と前置きしてまた話し始めた。

「突然ですが、話を一九六九年に移すことにしましょう。さきほど、現代において概念は絶頂を迎えた、と言いました。けれど絶頂期というのは、おうおうにして衰退の序章なわけです。サイヤ君や高木君は、というより僕も含め、客のほとんどは学生運動世代です。学生運動とは、君達は小さかったからあまり記憶にないかもしれませんが、学生が社会に対して異議を唱えた活動の総称です。その運動が頂点を極めた一九六九年、僕達はまさに青春の真っ只中にいました。

ではなぜ僕達の世代は社会に異議を唱え、ゲバ棒を振り回し火炎瓶を投げつけたのでしょう。概念を守るためでした。なぜなら僕達は概念の子だからです。

知識をもつことが一番、と教えられ、育ってきた子だからです。だから僕達は学生運動の対極にあるフラワームーブメント、ヒッピーを軽蔑していました。刹那を軽蔑していました。馬鹿に見えたからです。けれども勝者は彼らだったのです。僕達は概念を守るために闘っていた。が、実は概念を殺すために闘っていたのです。無意識のうちに。そのことに気づいた時、僕達は深く絶望したのです。

ところであなた方は連合赤軍事件を覚えていますか?」

それは知っていた。僕達はまだ小学生だったが、あさま山荘という言葉や、リンチ殺人という言葉は小学生にとっても鮮烈だった。

「連合赤軍事件は学生運動が刹那の産物だった、ということを鮮やかに見せつけてくれました。殺害された女性闘士の殺害理由が化粧をしていたから、という事実がそれを象徴しています。化粧は刹那の世界に属しています。殺害の理由が概念ではなく刹那だったという事実は、衝撃的で重いものでした。僕達、概念の子は、図らずも概念の死を手助けしてしまったのです。だから、絶望したのです」

そこまで一気に話した静和は、とにかく、ぽかん、とするしかない僕達を均等に見つめると、ふんふん、と鼻歌を歌うように僕達に飲み物を作った。静和の目が輝いていた。僕達にこのことを説明することが嬉しくてたまらないかのように。

「僕らは絶望しました。復活した刹那にも馴染めなかった。そういうわけで僕はこの店を始めたのです。ここは駆け込み寺なのです。アイデンティティを崩壊させた者達の駆け込み寺なのです。

僕は、この店で、絶望を回収しようと思いました。希望を回復しようと思いました。回収はさほど困難ではありませんでした。概念は死んだ。そのことをきちんと認識すること。それに尽きました。問題は、どのように希望を回復するか、ということでした。実はここですごく悩んだのでした。結論はある時、突然、やつてきました。僕は、僕達は、概念を復活させる、という結論でした。極めて当たり前の結論です。けれど、ここに至って僕はようやく恐ろしいほどの空虚さ、絶望から救われたのです。僕が救われるなら、他の、絶望を抱えた者も救われる、僕は素直にそう思ったのです。あとは手段でした。概念が死んだ後に概念を復活させる方法。だが、これもある時、すっと解決策が舞い降りてきたのです。それは僕達が徹底的に刹那になる、ということでした。シュバイツワーが天然痘を自らの体内に取り込んだように、僕達は刹那を自分のものにし、しかも、ばらまく側に回るのです。ただし、ばらまく刹那はすべて偽物です。トラップです。

説明しましょう。本物の刹那は、人を幸福にさせます。偽物の刹那は、人を馬鹿にします。ただ、馬鹿にするだけです。だからいいのです。馬鹿が最大域に達すると、人は知識を、概念を欲しがるようになるはずです。そこが狙い目でした。偽物の刹那が世界を覆い、すべての人が馬鹿になる。そのタイミングで、概念を提示する。みんな飛びつくことでしょう。概念の復活です。

復讐です。

この店にやつてくる者は刹那の世界に住んでいる者ばかりです。音楽業界、マスコミ業界、テレビ業界、作家や詩人、芸術家。僕達は毎日、刹那をせっせと作り出している。高木君のやつている芸能もサイヤのバンドも、僕の雑誌も、すべて刹那です。だが偽物です。軽薄なフェイクな刹那をせっせと配信し続けています。

この雑誌。惹句は、『気分はもう海!』です。そう。気分、です。偽物の刹那。ただの気分。すべてが、気分、で動く。馬鹿です。本当に馬鹿です。それでも僕達より下の世代は、免疫がないから、こうした偽物の刹那に飛びつきます。事実、飛びついています。この雑誌は売れに売れています。このように僕達より下の世代、つまりあなた方の世代、さらにそれ以降の世代を、僕達は、確信的に、馬鹿にしているのです」

いつのまにかレコードは終わっていた。高木ブーはカウンターに突っ伏して眠っていた。バカ? 人をバカっていったやつこそバカなんだよ、って母ちゃんはよく言ってた。何言ってんだ? このオヤジは。僕の中でざらざらがいつしか怒りとなって、爆発しそうだった。

だがここは静和の独演会だった。

「ところでシュラはすごい子供です。彼はまったく正しい。素晴らしく正しくこの雑誌の本質を、僕達の目論見を見抜きました」

静和の目の輝きがさらに増した。冬のミシガン湖のような凍てついた静寂に包まれた店内に静和の声だけが響いていた。

「いよいよ僕はシュラについて、ミチについて語らなければなりません。シュラは本物の刹那の子でした。彼は学校も行かず、概念を完全に拒絶し、感性は極度に洗練されていて、歌を渇望していました。歌とは本物の刹那のことです。さらに彼は絶望を知っていた。絶望を知っている者はそれだけで感性が研ぎ澄まされるのです。盲目の人の聴覚が研ぎ澄まされるように。ところであなた方はミチという女の子をご存知ですか?」

肯定も否定もしなかった。

「ミチは高木君が連れてきた女の子でした。高木君はご存知の通り芸能プロダクションを経営しています。テレビの中に入りたくて仕方ない若い子を選別する仕事をしています。彼はそうした子をここに連れてくることはまずありません。連れてくるのに値しないことを知っているからです。しかしミチは例外でした。なぜならミチもまた絶望を知っていたからです。ミチは孤児で帰るところもなく、屍のように繁華街の片隅にうずくまっていました。そこを高木君に拾われた。深い絶望によって獲得した儚さと美しさを兼ね備えた女の子でした。高木君は彼女に惚れ込んでいました。変な意味ではありません。あなた方も察しているとおり、高木君は女性に対して性的な魅力を感じない男性です。だからこそ彼は女の子の持つオーラを適確に見極めます。彼は即座にミチに超一級のオーラが備わっていることを見抜いたのです。

シュラとミチが何時そのようになったのか、僕は知りません。気づいた時には彼らは互いに無くてはならない存在になっていました。シュラはミチだけを、ミチはシュラだけを見つめていました。本当に深く結びついていました。彼らは店のステージで、たった二人で演奏していました。観客がいてもいなくてもまるで魂を交換しあうかのように歌を紡ぎ出していました。シュラがギターを弾きミチが歌う。それはとても美しい光景でした。そう。歌なのです。彼らは本物の刹那の子でした。恐ろしいほど輝いていました。本物の刹那のオーラをすでに獲得しつつありました。彼らの歌を聴いて僕はそう確信したのです」

 

突然、静和が歌い出した。

つぶやきのような、叫びのような、どこの国の旋律にも似ていない、不思議な歌を。

 

私達は哀しいセブンティーズ・キッズ。

哀しき七〇年代の子。

漂っているだけの、

世界が死んでいくのを看取るだけの、

哀しきセブンティーズ・キッズ。

 

「彼らの歌です。『今』を歌っています。世界が死んでいく、というフレーズにはふたつの意味が込められている。ひとつは概念の死。ひとつは本物の刹那の死です。

概念は死んでいく。それは必然です。だが同時に刹那も死んでいく。なぜならフェイクな、偽物の刹那がはびこってしまうから。ミチとシュラは知らずに気づいていた。僕は思いました。彼らをこのままにしておくと危ない、と。今はまだ子供だから僕達のことを信頼しているが、早晩僕達の目論見に気づくだろう、と。彼らは、僕達の敵になるだろう、と。僕達の復讐の脅威になるだろう、と。そうなる前にどうにかしようと思いました。あることを思いつきました。究極の絶望に追い込んでみてはどうだろうか。彼らを。ミチとシュラを。賭でした。究極の絶望に追い込むことで、彼らは輝きを失い、永久に脅威ではなくなるかもしれない。けれども、彼らがそれを克服してしまったら。ミチとシュラは本物の刹那の救世主として、覚醒してしまうかもしれない。それもまた面白い。そう思いました。実験でした。ではどうやって絶望させるか。夢を奪うこと、信頼していた者に裏切られることだ、と思いました。彼らは僕達を、僕をとても慕っていました。僕はそのアイディアを高木君に話しました。賛成してくれました。とはいえ高木君は僕の真意を正確には理解はしてなかったと思います。単にミチとシュラをとにかくデビューさせたい、それだけだったと思います。ミチとシュラをいかに効果的に露出するか、ということです。

そうして僕達は、僕は、シュラとミチを究極の絶望に追いつめる実験を始めたのです」

 

静和は一気に話し終えるとタバコに火をつけ、満足そうに吸い込んだ。彼の理知的で落ち着いた、けれどどこか幼い容貌に、タバコというアイテムはまったく似合わなかった。

高木ブーはすでに深い眠りについたのか時折びくっと体を震わすだけで、規則正しい寝息を立てている。静和の目が光っていた。妖しく光っていた。口元に微笑みがあった。そんな静和を見て、僕は、怖い、と思った。

「いよいよ彼らに施した実験と、結果について語らなければなりません。ところでシュラはこの写真や事件について、あなた方に話しましたか?」

僕達は首を振った。静和は写真を手に取ると僕達を見た。

「それはとても簡単な実験でした。ある日、シュラとミチにこう言ったのです。この道を、この写真に写っている場所を捜してみないか、と」

「それ、だけ?」僕は思わず口を挟んでしまった。静和はうなずくと言った。

「そう。それだけです」

まったくわからなかった。写真の道を捜せ、という言葉のどこに彼らを究極の絶望に追いやる力があるのか、まったくわからなかった。

「説明してください」僕は言った。

「さきほどもお話した通り、ミチは高木君に拾われました。彼女はわずかな荷物しか持っていませんでした。そのわずかな荷物の中にこの写真があったのです。聞けば、赤ちゃんの頃からもっていた写真だそうです。だからこの写真は本当に彼女の生まれた場所の写真なのかもしれません。ということで、私達はこの写真にストーリーを与えたのです。夢と希望を付与したのです」

「夢と希望?」

「そうです。ただしフェイクな夢と希望を」

静和の目がまた光った。ぞっとした。狂っている、そう思った。

「僕達のプロジェクトはこうでした。ミチという儚くも美しい十六歳の女の子。すでに絶望を知っている天涯孤独の女の子。そんな彼女が自分の生まれた場所を捜す旅に出る、自分の出生の秘密を探る旅に出る。その過程を映画にしよう、と。旅の伴侶は、これまた家庭的に恵まれず孤独に生きる美少年シュラ。二人は日本全国を旅しながら、さまざまな人と出会い、困難に出会いながら少しずつ出生の場所に近づいていく。そう。約束された土地に。ようやく二人はその場所を見つける、生みの母親とも再会する。感動的なフィナーレを迎える。その時。すべてフィクションだったと彼らに伝えるのです。まったくの嘘っぱちだったと。やらせだった、と。そうです。百からゼロへたたき落とすのです」

 

染谷の顔も真理の顔も蒼白だった。僕もだった。

血の気が引くとは、こういうことをいうのだ。全身の血がさあっと薄くなり、気づいたら鳥肌が立っていた。顔の筋肉がぴくぴく震えていた。

やらせ? 嘘っぱち? 百からゼロ? いったい? どういうことなのだ?

「今から映画をお見せします。ラフな編集のまま止まっていますが、僕は諦めていません。時期が来たら完成させたいと思います。どうぞこちらへ」

静和はそう言って僕達をライブスペースに招き入れた。

 

『約束された土地で』という映画は美しい田園風景をバックにして、ミチが独白するシーンから始まった。

 

…この映画は私の出生を巡る旅の記録です。

 

ミチの声は低く静かで山の清水のように透明だった。

新緑と眩い太陽。揺れる青い稲穂。季節は五月だろうか。画面の隅々にまで生命の息吹が溢れている。カメラはゆっくりズームしていき、たんぼのあぜ道に立つ一人の少女を捉える。スクリーンの中のミチは、白いニットのパーカを羽織り、洗いざらしのジーンズを履き、ショートヘアで、まるで少年のようにざっくりしていて、けれど細くしなやかな身体は観る者すべてを魅了するオーラに満ちている。

彼女の瞳がカメラを見る。その瞳は、儚い光をたたえたかと思うと次の瞬間、聡明さが宿り、さらに次の瞬間、胸が締め付けられるような寂しげな色になる。

 

…私は施設で育てられました。

母の顔も父の顔も知りません。自分がどこで生まれたのかさえ知りません。

それが私の運命でした。

私は死んだように生きていました。

けれどある瞬間、周りの景色に色が戻ってきたのです。

きっかけは一通の手紙でした。

ある日、突然届いた母からの手紙でした。

 

 

あなたのことは片時も忘れたことはありませんでした。

許して、とは言いません。

あなたの誕生日を一度だけでもいいから祝いたくて、

許されないと思いながらも手紙を出してしまいました。

十六歳の誕生日、おめでとう。美しく成長していることと思います。

あなたが生まれたとき、ママはどんなに嬉しかったでしょう。

どんなに幸せだったでしょう。

どうしようもなかったの。

運命に翻弄され疲れ果て、あなたを手放してしまった。

とても後悔しています。

時を戻すことはできない。虚ろな十六年を取り戻すことはできない。

すべては言い訳になってしまいます。

言えることはひとつしかありません。

本当にごめんなさい。

 

十六歳になったあなたに話さなければならないことがあります。

あなたの荷物に入れた写真。

それがあなたの故郷です。あなたが生まれた場所です。

そうなのです。

あなたには母もいれば父もいる。故郷もある。

そのことを忘れないでください。強く生きてください。

ママは、いつもあなたを考えています。

許して。

 

 

…確かに私はずっとこの写真を持っていた。何の写真だろう、と思いながら、捨てずにずっと持っていた。故郷の写真だったのだ。私が生まれた場所の写真だったのだ。

私には故郷があった。母もいた。父もいた。祝福されて生まれてきた。

嬉しかった。私は、たったひとりではなかったんだ。

だから私は旅に出るのです。

この土地を、この道を、故郷を、ママを捜す旅に出るのです。

そう。今日。今。これから。

 

カメラは古い写真と古い封筒を大写しにする。

封筒に何かが書いてある。

歳月のためか、ほとんど文字が消えかかっている。それでもどうにか、『八月…人町にて』と読める。

 

『八月…人町にて』と。

 

…これが唯一の手がかり。私の故郷は『…人町』という土地だ。だから私は日本全国を旅しながら、『…人町』という町をすべて訪れるのです。この写真の場所を捜すのです。ママの痕跡を捜すのです。もしかしたらママに会えるかもしれない。私を抱きしめてくれるかもしれない。

そう。この旅は、すべてに絶望していた私の、唯一の夢、希望なのです。

次の瞬間、場面は変わり街道筋のドライブインが映し出される。夜だ。雨が降っている。無意味に広い駐車場には傘も差さずに立ちつくす一人の少女と一人の少年。彼らは長距離トラックの運転手に話しかける。その光景をカメラは遠くでとらえている。運転手は二人を不審そうに眺めながらドライブインに入っていく。駐車場にはまた二人だけとなる。二人は抱き合うように立ちつくしている。しばらくしてドライブインから出てきた運転手が二人に声をかけ、二人はトラックに乗り込む。トラックは過剰な電飾を画面に焼き付けて走り去っていく。

場面は変わり山間の静かな田舎町。朝の陽光を浴びながら二人はバス停のベンチに座っている。隣に老婆がいる。少年が老婆に話しかける。カメラは少年の横顔を捉える。僕達の知る蕪谷よりも少しだけふっくらとしていて少しだけ子供っぽい。蕪谷は老婆に写真を見せる。老婆が何事か喋る。ミチはそんな二人を不安そうに見つめている。バスが停まる。三人の姿が隠れる。砂埃が舞い再びバスが発車する。ミチと蕪谷だけがベンチに座っている。バス停が大写しになる。そこには『舎人町』と記されている。

あるいは二人は電車に乗っている。海岸沿いだ。雲が空を覆い、黒い海がゆるやかに波打っている。小さな駅で二人は降りる。駅員が笛を吹く。電車が去ったホームで蕪谷が駅員に写真を見せる。駅員が首を振る。黒い海がゆるやかに波打っている。駅のホームに掲げられた駅名が大写しになる。そこには『隼人町』と記されている。

そんなふうに二人はバスに乗り、電車に乗り、あるいはヒッチハイクしながら『…人町』を訪ね、出会う人に写真を見せていく。夜。場末の宿で、公園のベンチで、寺の境内で、二人は身を寄せ合って眠る。漂流者のように。

カメラは淡々と二人の旅を追いかける。映画は情感を廃した映像とときおり挿入されるミチのナレーションで、静かに進行していく。よけいな台詞もよけいな音楽もよけいなエモーションもなくカメラはまるで神の目のように、二人の旅をなぞっていく。

それでも、それだからこそ、観る者は彼らの旅の本質を見つめることができる。彼らの喜び、彼らの落胆、彼らの苦悩、彼らの表情一つ一つがその映画のすべてだ。寺の住職、自殺を考える男性、世を捨てたホームレス。夜の街のホステス。さまざまな人と出会い困惑し、喜び、悩み、考える。

突然、旅が動く。何十回目かの「…人町」。寂れた商店街の片隅に佇む一人の男。蕪谷がいつものように声をかける。写真を見せる。男は写真を見つめている。長い長い時間、見つめている。カメラが猫のように男に寄っていく。男は、突然、蕪谷とミチに話しかける。二人の表情がぱっと輝く。男ととも二人はバスに乗り込む。山をつづら登っていく。終点は山深いダムだ。

緑色の水をたたえたダムを見下ろしながら男が言う。

「あんた達の捜している場所はここだ」

ミチが大きな目をさらに大きく見開いて尋ねる。

「ここ? が?」

「そうだ。あんたの持っている写真の場所はここだ」男が答える。

「でも、ここはダム」蕪谷がとまどいがちにつぶやく。

「そう。ダム。だが、ここだ。私にはわかる。この町はダムの底に沈んだ」

…ダムの底に沈んだ…。

「そうだ。ダムに沈んだ町。百人町」

…百人町…。

とても静かな場所。

風の音だけがしゅわしゅわ辺りを舞っている。

二人は身を乗り出すようにダムを覗き込む。

しん、とした水の塊だけがそこにはある。

「ここが、私の生まれた場所」

カメラがミチの顔をアップにする。

ミチの目に涙が溢れている。

一粒、頬を伝ってダムの緑に吸い込まれていく。

「私の、生まれた場所は、やっぱり、ない」ミチが絞り出すように言う。

「いや、ある」蕪谷が崩れそうなミチを励ますように言う。

「ミチはここで生まれたんだ。確かにここで生まれたんだ。ほら。見てごらん。緑色の水を。豊かな水を。ミチの涙を受け止めた水を。どこかお母さんに似ている水を」

二人はもう一度、ダムを覗き込む。永い永い時間、ダムを見つめている。険しかった二人の表情がいつしか柔らかくなる。いつしか静かな笑みが宿っている。

「うん。見える。ママの顔」ミチが言う。

「そう。見える。ミチのお母さん。とても優しそうだ」蕪谷も言う。

「うん。優しい。すごく優しい」ミチは涙を流しながら、笑っている。すごく幸せそうに、赤ちゃんのように。無垢に微笑んでいる。

 

突然、映画が終わった。

スクリーンは白々しいぐらい真っ白くなり、ジィ、と映写機が回る音だけがライブスペースに響いていた。ぱちん、とスイッチ音がし部屋が明るくなった。僕はあまりの眩しさに瞬きすると、それでもまだ映画の世界にいるような気がした。すごく美しい映像だった。ミチも蕪谷も怖いぐらい美しかった。怖いぐらい愛に溢れ、怖いぐらい悲しい映画だった。染谷が泣いていた。真理が泣いていた。二人は溢れてくる涙をそのまま頬に伝わせていた。

「映画はここで編集を止めています」静和が言った。

「この後、二人は男の家に行き、当時の町の様子を聞く、というシナリオでした。男はミチの母親を知っており、赤ん坊時代のミチのことさえ知っている、という設定でした。男によってミチは母親と対面する、そういうシナリオでした。このうえない感動が画面いっぱいに溢れます。ミチもシュラも、幸福の絶頂にいます。

が。その直後、反転するのです。すべてフィクションだった、と二人に伝えるのです。母親も役者だった、と。ダムの底に沈んだという話もフィクションだった、と。この旅を通じて出会ってきた人すべてがシナリオに沿った役者だった、と。そうミチとシュラに伝えるはずでした。この町は決してあなたが生まれた場所じゃない。適当に選んだ町だ、と。その時の彼らの表情。その直後に立ち上がってくるはずの、究極の絶望。カメラはしっかり捉えるはずでした。

けれども結局、映画はここまでしか撮ることができませんでした」

「…なぜ?」

僕は自分の声に不吉なものを感じながら、訊いた。

静和はすぐには答えなかった。

しばらくして静和は、僕達をまっすぐ見つめると言った。

「馬鹿者がいたのです」

静和の話によれば、旅を撮り続けていたカメラマンが、ダムの場面でのミチの微笑みを撮った直後、突然ミチとシュラに駆け寄り、泣きながら本当のことを話してしまったのだそうだ。カメラマンは良心の呵責を感じていた。彼の神経はこの映画のコンセプトに耐えられなかった。究極の絶望に彼らを追い込むことができなかったのだ。

「一瞬の出来事でした。防ぎようのない出来事でした。ミチはダムに身を投げたのです」

その言葉が僕達の心を貫いた瞬間、染谷が立ち上がった。

パン! と乾いた音がした。

静和の顔が大きく横を向いた。

染谷の目から、とめどなく涙が流れ落ちていた。静和の頬を叩いた右手は、叩いたままの形でしばらく宙にあった。

その手が一回大きく震えると、染谷は何も言わず店を飛び出していった。

真理も立ち上がった。

「私は、概念も刹那も、そんなことがこの世の中にあることをこれまで考えたことはありませんでした。概念の時代とか、刹那の時代とか。学生運動とか、復讐とか。でもそんなことはどうでもいいのです。そう。そんなこと、どうだっていい。ただ絶望という気持ちを、今日初めて知ることができました。あなたは自分を神だと思っているのですか。自分の絶望のために人を犠牲にしていいのですか。刹那の時代だろうが概念の時代だろうが、そんなことは何も関係ない。私はこの時代が好きです。今、が好きです。出会う人すべてが好きです。いや、好きでした。でも今日初めて絶望するほど救いがたい人がこの世にいることを知りました。あなたは確かに頭がいいのかもしれない。才能があるのかもしれない。でも最低です。そして馬鹿です。救いがたいのは時代でも社会でもありません。あなたです。あなたが一番救いがたく、大馬鹿です!」真理は涙で濡れた目で静和を睨みつけると、染谷を追って店を出て行った。

静和は泣いているのか笑っているのか、そのどちらともとれる表情で黙っていた。僕はさまざまな思いが胸のうちに交錯して、何をどう言葉にすればいいのかわからなかった。ただすごく哀しくすごく辛く、すごくやるせなかった。静和がこれまで長々と話していたこと、刹那とか絶望とか概念とか一九六九年とか。真理の言うとおり、そんなことはどうでもいいと思った。ただの言葉遊びにしか聞こえなかった。あるいは自分の異常な欲望を正当化する言い訳にしか。真理と同じように初めて人を心の底から憎い、と思った。立ち上がると静和を睨みつけた。顔がぴくぴくしているのが自分でもわかった。

「なぜ、蕪谷達をおもちゃにしたのですか」声の震えを押さえることができなかった。

「なぜ、蕪谷を、ミチさんをあんたはほっといてくれなかったのですか!」

いつしか静和の胸ぐらをつかんで思いきり揺すっていた。

「なぜあんたはミチを殺したのですか! なぜあんたは今も生きているのですか! 何で今の今までのうのうと生きているのですか!」

静和の体を激しく揺すぶりながら、僕は嗚咽で言葉が出なくなっていた。息がつけなくなっていた。激しい悲しみが僕の体を貫通していた。

「ミチが、蕪谷が、可哀想だと思わなかったのですか。彼らが何をしたんですか!彼らはあんたを信頼してたのに!」

胸ぐらをつかんでいた手を離すとドアに向かって歩き出した。足に力が入らずよろけてしまい、いまだ眠っている高木ブーに衝突してしまった。それでも高木ブーは死んだ豚のようにだらしなく口を開けヨダレを垂らしてびくともしなかった。ドアに手をかけ、外に出ようとしたその瞬間、後ろで静和のか細い声がした。

「…僕は、僕は…愛していた…」

振り返らなかった。

絶対に振り返らかった。

ドアを閉め、店の外に出た瞬間、急に力が抜けその場に座り込んでしまい、しばらく立ち上がることができなかった。このまま眠りたいな、と思った。何も考えずにただ眠りたいな、と。静かに眠りたいな、と。

 

原宿の駅前まで来ると、それまでずっと下を向いていた染谷が僕と真理を見て、かすれ声で言った。

「今日はとりあえず親戚の家に帰ります。明日施設に行ってみます。蕪谷さんと会ってきます」

「私も行っていいかな」真理が言った。

「俺も行っていいかな」僕も言った。

染谷は、寂しそうに笑うと、お願いします、と言い残して雑踏に消えていった。

染谷が見えなくなると、真理が僕の手を探してきたので、真理の手をそっと握った。僕達は手を握り合ったまま、熱気渦巻く駅前から逃げ出すように歩き出した。このままずっと歩いていたかった。何も考えずに、ただ歩いていたかった。止まったらそこに座り込んで動けなくなることがわかっていたから。

誰かが僕の肩を、ぽん、と叩いた。振り向くとサイヤが立っていた。

「ちょっと、いいかな」

 

サイヤは代々木公園の小道をずんずん奥へと入っていき、だだっ広い芝の広場の真ん中に一本ぽかんと立っている大木の根元に腰を下ろすと、僕達にも座るよう促した。

静かだった。

広場は暗がりの彼方まで続いていて人の気配はまったくなく、ここが東京のど真ん中だとはとても思えなかった。ネオンの光は明るく、風に乗って人々の喧噪が遠くからやってきていたが、それでもここはとても静かで、この世界には僕と真理とサイヤしかいないように思えた。

「静和を許してくれ、というのは無理だと思います」サイヤは言った。「とにかく静和は、高木も、ミチやシュラに対してやってはいけないことをやってしまった。僕も傍観者、という立場でこのゲームに参加していたのですから、同罪なのです。だから僕はあなた方にもう一度会う必要があったのです」

サイヤは僕と真理に、深々と頭を下げた。

「僕達に頭を下げられても、それは違うと思います」僕は言った。「もしあなたにそういう気持ちがあるのなら、やはり蕪谷に謝ってほしいです。ミチさんにも」

サイヤは僕の言葉に無言でうなずくと空を見上げ、あ、と声を上げた。

「今、流れ星。見ましたか」僕と真理は同時に首を振った。

「実は流れ星は毎日、数十から数百、あるんです。本当はごくありふれたことなのです。でも僕達はほとんど見ることができない。昼間の流れ星は勿論、夜は夜で、僕達は空を見ることがない。大人になればなるほどそうです。みんな下を向いている。だから流れ星は、本当はすごくありふれたことなのに特別なものになるのです。ミチとシュラもある意味、僕達にとって流れ星のようなものだったのです。大人になってしまうと十代の子がすごく眩しく見える時があるのです。特に豊かな感性と瑞々しい美しさを持った子は。例えばミチとシュラのような。ところであなた方が観た映画、『小さな恋のメロディ』はトロッコに乗って二人が草原の彼方に消えていくところで終わります。あのトロッコの行き先には一体何があるのか。あなた方はどう思いましたか」

すっかり忘れていたことが蘇ってきた。そういえば今日、映画を観たのだった。『小さな恋のメロディ』。真理が五回も観た映画。最後はトロッコを漕ぐ二人が地平線の彼方に消えていく映画。

真理が言った。「愛、だと思います」

真理はまっすぐサイヤを見ていた。

「私は、トロッコに乗った二人の行く末には、愛、があると思います」サイヤは一度、うん、とうなずいた。

「君は素晴らしい女の子ですね。括弧がまだ、ない」

「括弧?」僕は聞き返した。

「大人になると、括弧付きになってしまうのです。ある意味、大人の愛は括弧付きの『愛』なのです。でも君達はいとも簡単に、すごくまっすぐ愛という言葉を口にすることができます。そこがうらやましくもあり、危うくもあるのだけれど。そう。『ある意味』なんて前置きはいらないのです。愛はとても素直に至るところにあります。子供はそれを本当に空気のように、至極簡単に見ることができる。でも大人になるとそれが見えなくなる。あるいは屈折する。あるいは愛の持つ複雑さに気づいてしまって、シンプルでいられなくなる。静和は理屈はたくさんつけていますが、単にミチとシュラをすごく愛していて、ミチとシュラの感性に魅入られて、だからこそ彼らに嫉妬して、自分の煌めきのなさに落胆して、あんな酷い仕打ちをした。愛するが故にいじめる。この話はただそれだけの話なのです。だからといって君達に、ミチやシュラに許してもらえるとは思わないけれど」サイヤは一旦言葉を切り夜空を見上げた。

「静和はたぶん、刹那と概念について語ったと思います。…僕はこう思います。刹那とは一瞬の命の煌めき、高揚です。概念とは錨、人を平安に留めておくいかりのようなものです。どちらが優れているとか時代によってどうとかそういうものではなく、それはいつの時代にもあまねくあるものなのです。いや、あまねく無くてはならないものなのです」

サイヤはものすごく強い眼差しで真理を見つめると、何かを避けるように空を見た。

だから僕も真理も夜空を見た。星は何事もなかったかのように瞬いていた。僕達の故郷よりは断然少ない星の数だった。それでも一際大きな星が瞬くと他の星もそれに倣った。僕達の故郷と同じように。一瞬その星空に、ミチと蕪谷の笑顔が見えたような気がして、すると抑えていたいろいろなものが滝のように押し寄せてきて、実際、涙が滝のように溢れてきて、するとそれは、どんなに頑張っても、もう止めることはできなかった。

 

 

 

chapter.12

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